Be-1 【1987,1988】

一大ブームを創出した日産パイクカーの第一弾

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他と違う「とんがった」クルマ造り

 ハイテク技術を満載した新型車の開発に凌ぎを削っていた1980年代前半の日本の自動車メーカー。この状況に対し、日産自動車の先行開発部門はひとつの疑問を感じた。ユーザーはもっと気楽に付き合える、心地よいクルマを求めているのではないか−−。回答策として開発陣は、異業種クリエイターとのディスカッションも交えながら同コンセプトの検討用先行モデルの企画を推し進めることとした。

 ベースモデルとなったのはK10型系マーチで、マーチのシャシー上にA/B/Cの3方向からのデザインスタディが提案される。A案を手がけたのは社内の造形第1スタジオで、B案を担当したのは社外のプロダクトデザイナー。そしてC案は、海外デザイナーが線を引いた。様々な作品が机上に置かれたが、その中で最も“心地よさ”が感じられ、しかも既存のクルマにはない新鮮味をたたえていたのは、社外プロダクトデザイナーが提案したB案のファーストモデルだった。最終的に日産の開発陣は、このデザインのスタディモデルを製作することに決定し、東京モーターショーの舞台で披露して観客の反応を探る方針を打ち出した。

モーターショーで予想以上の大反響

 B案のファーストモデルにちなみ、“Be-1”の車名を冠して作られたスタディモデルは、1985年10〜11月開催の第26回東京モーターショーで雛壇に上がる。MID4やCUE-Xといった派手な日産製コンセプトカーが居並ぶ中で展示されたコンパクトカーのBe-1だったが、観客の注目度という点では決して引けを取らなかった。むしろ、「発売時期や車両価格を尋ねる観客は、MID4よりも多かった」(当時の日産スタッフ談)という。

 Be-1にはユーザーの大きなニーズがある−−。そう判断した日産の首脳陣は、モーターショー後の年末になってBe-1の市販化にゴーサインを出す。しかも、開発や生産技術のスタッフには「1年以内に発売しろ」という命を下した。

「1年で市販化する」という難題に対して……

 わずか1年あまりで市販に移す……。この命題に対して日産のスタッフは、提携関係にある高田工業に協力を仰ぎ、共同でBe-1の市販モデルを手がける旨を決定する。またこのプロジェクトでは、大量生産を前提としない“とんがった”クルマ、すなわち「パイクカー」に仕立てる方針が打ち出された。

 スタイリングに関しては、“ノスタルジックモダン”をテーマにしたデザインスタディを可能な限り再現すべく、様々な工夫が凝らされる。まず丸みを帯びたフロントフェンダーや前後エプロン部には、新開発の熱可塑性樹脂であるフレックスパネルを採用する。この素材は1)150度まで変形しない高い耐熱性を持つ(鋼板との同時焼き付け塗装が可能) 2)成形の自由度が高い 3)軽衝突時の復元性が高い 4)錆びない 5)鋼板に対して約25%も軽い、などの優れた特性を有していた。次に開発陣は、ドアパネルなどの主要パーツにデュラスチールを用いる。一般的なジンクロメタルに比べて約2倍の防錆効果を持つ同素材の採用は、Be-1に愛着を持って長く乗ってほしいという開発スタッフの願いが込められていた。ほかにも二重構造のシルや前後の接着ウィンドウガラスなどを採用し、高いボディ剛性を確保する。またスタディモデルと同様、キャンバストップのルーフも設定した。

 開発陣はインテリアについても大いに趣向を凝らす。キャビン空間全体の雰囲気は、乗る人に心地よさを感じさせるデザインコンセプトで統一。ナチュラル感覚あふれるニット地のフルクロスシート、丸型のベンチレーショングリルとホワイトメーター、丸パイプ風ヲモチーフにアレンジしたステアリングホイール/アームレスト/ヘッドレストなど、専用パーツを満載した。
 生産場所に関しては、高田工業の横浜・戸塚工場に専用ラインが設けられる。シャシーやエンジンなどが日産から運ばれ、戸塚工場において半ば手作りで組み立て。完成した後は再び日産に送られて検査を受け、すべてを完了してから販売ディーラーに出荷される手順を踏んだ。

ボディカラーは4色。販売台数1万台限定

 日産自動車渾身のパイクカーは、当初の予定通りに1年あまりで生産ラインに乗り、1987年1月にはBe-1の名で市場デビューを果たす。車種展開はMA10S型987cc直4OHC(52ps/7.6kg・m)の1エンジンに5速MTと3速ATの2ミッション、標準ルーフとキャンバストップ仕様の2ボディ、トマトレッド/パンプキンイエロー/オニオンホワイト/ハイドレインジアブルーの4ボディカラーで構成。車両価格は129万3000円〜144万8000円の設定で、販売台数は限定1万台とした。また広告も積極的に展開し、イメージカラーのパンプキンイエローで彩られたBe-1をフィーチャーしながら、「私は、日産のスローガンです」「クルマを変えていくのは、こんなクルマかもしれない」というキャッチを冠したCMが、クルマ好きから大注目を集めた。

 日産はBe-1のデビューをきっかけに、ユーザーとのコミュニケーション展開でも新たなアプローチを試みる。Be-1のテイストを気軽に体感できる高感度スペースの「Be-1ショップ」を、日産自動車販売や広告代理店などと組んで東京の南青山に設立したのだ。このショップでは実車Be-1の展示のほか、Be-1ブランド商品の展示・販売や各種イベントの開催などを実施。クルマによる新しい複合プロモーション活動として、業界から熱い視線を浴びた。

高額で取引される超人気モデルに

 もうひとつ、Be-1はちょっと変わった場所でも注目を集める。プロ野球の横浜ベイスターズのホームグラウンドである横浜スタジアムである。オープンカーに改造された赤いBe-1がリリーフカーとして起用されたのだ。当時の日産は横浜スタジアムをスポンサードしていたため、リリーフカーには以前から910型系ブルーバードの改造オープンカーが使われていたが、1987年シーズンからはBe-1が採用されたのである。ちなみに、Be-1のリリーフカーは2年間ほど活躍。その後はエスカルゴ (S-Cargo) の改造オープンカーに交代した。

 さて肝心の市販版Be-1のほうだが、市場では異様なまでの盛り上がりを示す。1万台の予約は2カ月かからずに終了。「とにかく早くほしい」という予約者の声に応え、月産は当初の400台から600台あまりに増やされる。また予約にもれた人は中古車、または予約を譲ってくれるユーザーを探し求め、これに業者が絡み、結果的にBe-1にはプレミアがついて市場での取引は200万円台がザラだった。