ホンダの歴史2 第二期/1965-1975 【1965,1966.1967.1968.1969.1970.1971.1972.1973.1974.1975】
“チャレンジ精神”と“夢を紡ぐ力”がすべての原点
四輪車への進出を果たしたホンダ技研は、
1960年代半ばからいよいよ大衆車の開発を始める。
最初に手掛けたのは、軽規格の乗用車だった。
その後も魅力的なモデルを次々と発表。
排ガス規制にはいち早く新技術を投入する――。
スポーツカーや商用車などで四輪車業界に参入したホンダは、次なるターゲットを軽乗用車に定める。資本力に差がある大手競合メーカーがいない、先行メーカーに対抗できる技術があることなどが、このカテゴリーに狙いを定めた理由だった。開発は1960年代半ばごろから始まる。エンジニアが最初に掲げたのは「キャビンから設計を始める」。クルマの空間を3つに分け、キャビンをできるだけ大きく、メカニカルな部分は極力小さく、そして荷物を入れるトランクルームを設ける−−。その後のホンダ製乗用車に息づく“メカ・ミニマム”の設計思想である。さらに、従来の軽乗用車にはなかった動力系のゆとりも徹底的に追求した。
1966年の第13回東京モーターショーで、ホンダ初の軽乗用車“N360”が披露される。既存の軽乗用車とは異なる端正でスポーティなルックス、広い居住空間、354cc空冷2気筒エンジンの高性能なスペックなどが話題となり、ホンダ・ブースは黒山の人だかりとなった。2カ月後にはN360の価格を狭山工場渡しで31.3万円と発表。競合車より5万円以上安い設定に、ユーザーは驚いた。たちまち注文は殺到し、1967年3月の市販デビューから2カ月後には軽乗用車のベストセラーとなった。
1970年にはユーザーユニオンが指摘した“欠陥車問題”の風評で軽自動車の販売成績は低迷するが、既存モデルの改良や新型車の開発などでその苦境を乗り切る。1970年10月には軽自動車初のスペシャルティカー“Z”を発売。その1カ月後には商用車のTN360をベースにするオープントラックの“バモス”をリリースした。
N360の成功を背景に、ホンダは念願の小型車分野への進出を図る。その第一弾モデルが、1968年の第15回ショーで発表された“1300”だった。1969年4月から市販に移された1300は、空冷式の1.3Lエンジンを搭載していた。当時の社長の本田宗一郎は空冷方式に絶対の自信を持っていた。水冷式に比べて部品点数が少なく、無駄な故障の原因が省ける。それに水冷式でも最終的に水を冷やすのは空気−−。ただし、空冷式の欠点である冷却効率の低さは認めていた。そのためDDACと呼ぶ一体構造二重壁空冷方式を開発し、エンジンに組み込む。
独自の技術を投入した1300は、他社の2Lクラス並の加速と最高速を実現した。「100馬力のスポーツセダン」をキャッチフレーズに、ユーザーの認知度を高めていく。1970年2月には“イーグルマスク”を備えたクーペが登場。翌月にはATモデルを設定した。1300はコアなファンには受けたが、一般ユーザーにはそれほど浸透しなかった。DDACのアピールのしにくさ、フロントの重さによるタイヤの偏磨耗など、課題も見え始める。さらに年々高まってくる排出ガス規制が、空冷エンジンを追い込んでいった。燃焼の均一化と緻密な制御が絶対条件の低公害エンジンを作るには、水冷方式のほうが有利だったからだ。
副社長の藤澤武夫を介して本田宗一郎を説得し、1969年末に水冷エンジンの開発にこぎつけた現場エンジニアたちは、まず最初に軽自動車の水冷化に着手する。1971年5月にEA型水冷2気筒エンジンを搭載したライフを発表。1972年9月には軽ミニバンの元祖ともいえるライフ・ステップバンをリリースした。
ライフの開発と並行して、エンジニアたちは小型車用エンジンの水冷化も実施する。そして1972年7月、EB1型1.2L水冷式直4ユニットを積むシビックを発売した。エンジンの進化はここで終わらない。アメリカで施行される大気清浄法、いわゆるマスキー法をクリアするエンジンを開発しようとしたのだ。エンジニアたちは苦心惨憺の末、副燃焼室を設けた複合渦流調速燃焼方式=CVCCの開発にこぎ着け、水冷エンジンに組み込む。完成したCVCCエンジンは1972年12月にアメリカEPA(環境保護庁)でテストを受けた。結果は合格。このとき、マスキー法をクリアした世界第1号エンジンとなった。
1973年12月、シビックCVCCは市販デビューを果たす。このモデルは日本の昭和50年排出ガス規制をトップでクリアしたモデルでもあった。アメリカでは1975年モデルから販売を開始している。
シビックCVCCのデビューは衝撃的だったが、実はその2カ月前にもホンダは世間を賑わした。ホンダの創立25周年を祝うパーティの席上で、本田宗一郎社長と藤澤武夫副社長の盟友が退任し、経営権を持たない最高顧問に就くと表明したのである。水冷エンジンやCVCCの成功が自分抜きで行われたことで、「後継は育った。これなら会社を任せても大丈夫」と判断したためだった。後任には二輪レースの監督も務めた河島喜好が任命された。