トヨタの歴史2 第二期/1958-1972 【1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972】

日本No.1メーカーへの成長と足固め

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オリジナル乗用車のクラウンやコロナなど、
積極的に新型車を発売した1950年代半ばのトヨタは、
来るべき1960年代に向けて小型車の開発に乗り出す。
さらに自社の技術力を世界にアピールする
スポーツカーの製作にも意欲を見せ始めた――。
大衆車開発の挫折と成功

 クラウンやコロナがデビューした1950年代中盤、トヨタ自工では大きなプロジェクトがスタートする。他メーカーにはあって自社にはないカテゴリー、小型車の開発だ。当初はパッケージングで有利なFF車の製作を目論んでいたが、振動面や耐久性の問題で開発が難航。結局FR方式に切り替え、1960年10月の全日本自動車ショーで試作車のトヨペットUP10を発表する。同時に車名を公募し、約100万通の中からパブリック(大衆)とカーを掛け合わせた“パブリカ”が選ばれた。

 1961年6月に華々しく登場したパブリカだったが、販売成績は伸び悩む。実質重視の簡素な作りが、クルマを贅沢品として捉えていたユーザーに受け入れられなかったのだ。トヨタ自工はパブリカの上級化を実施し、メッキパーツや快適装備を組み込んだデラックス仕様を発売する。この戦略は当たり、パブリカの売上は大いに伸びた。このとき、トヨタ自工は「ユーザーはクルマに対して、より高級で余裕のあるものを望む」という確信を持つ。この経験は、その後のクルマ造りに徹底的に生かされた。

 パブリカに継ぐ大衆車を模索していたトヨタ自工は、ユーザーの上級指向に合わせて、1Lクラスのクルマの開発に着手する。試作品がほぼ出来あがった1966年初頭、ひとつの情報が入った。ライバルとなる日産自動車の新型大衆車が、1Lエンジンを搭載してくるというのだ。そこで急遽、自社のエンジンを100cc上げて1.1Lにする決断を下す。パブリカで学んだユーザーの嗜好を、ここで生かそうとしたわけだ。改良作業は急ピッチで進み、66年10月に「+100ccの余裕」を謳ったカローラがデビューする。トヨタ自工の戦略はずばり当たり、サニーを圧倒するベストセラーカーにのし上がった。さらに67年11月には同社のコロナが日本初のミリオンセラーを達成。この時点でトヨタ自工は、誰もが認める日本のNo.1自動車メーカーに位置づけられることになる。

シンボリックな2台のスポーツカー

 パブリカが登場した1961年の前後、トヨタ自工社内ではひとつの気運が盛り上がっていた。ホンダの四輪車進出や日産のフェアレディの登場によってもたらされたスポーツカー製作のムーブメントだ。未知のクルマの開発に当たり、トヨタ自工の技術者がベースとして選んだのは、パブリカのコンポーネンツだった。

これで運転が楽しく、しかも安価で収まるライトウエイトスポーツを造ろうとしたのである。1962年半ば、提携関係にある関東自動車工業の手により試作車が完成。同年の全日本自動車ショーに“パブリカ・スポーツ”の名で披露された。1964年のショーでは、より量産版に近い仕様を展示。そして1965年3月に、“トヨタ・スポーツ800”の名で市販デビューする。

 パブリカ・スポーツの開発が進むなか、トヨタ自工ではもうひとつのプロジェクトが進行していた。ヤマハ発動機が企画していたスポーツカーの共同開発だ。もともとはヤマハと日産で進めていたプロジェクトだったが、ショー・デビュー目前で御破算。ヤマハがトヨタ自工に話を持ちかけた。トヨタ自工でも本格スポーツカー開発の機運が高まっていたため、スムーズに新しいプロジェクトが立ち上がる。トヨタ自工はクルマのスタイリングと基本構成を担当し、ヤマハはエンジンの開発と細部の煮詰めなどを担った。そして1965年の東京モーターショーで完成車がデビュー。車名は“トヨタ2000GT”を名乗った。

1966年からはレースにも参戦し、同年10月には谷田部テストコースで高速耐久トライアルを敢行する。この時、3つの世界記録と13の国際新記録を樹立した。67年5月から市販を開始。流麗で豪華な内外装に高性能を極めたメカニズム、そしてフェアレディ2000の約3倍という238万円の高価格などで、クルマ好きの羨望の的となった。

積極的なラインナップの拡大

 カローラやコロナの成功、スポーツカー分野への進出などで勢いをつけたトヨタ自工は、その後も積極的に新型車をリリースする。1967年9月に最高級プレステージカーのセンチュリーを、1968年9月にコロナの上級版のマークⅡを、1970年10月には小型車の底辺拡大を狙ったカリーナと国産初のスペシャルティカーのセリカを発表した。カローラやクラウンも新たな改良や新シリーズの追加などを実施し、より魅力を高めていく。

 このままの勢いが続くかに見えたトヨタ自工だが、1970年代に入ると次第に逆風が吹き始める。それは大気汚染防止のための排出ガス対策と石油ショックによる猛烈なインフレだった――。