昭和とクルマ8 【1965,1966,1967,1968,1969,1970】

技術成熟。花開いた高性能な国産スポーツモデル

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トヨタ渾身のスーパーモデルの登場

 大衆乗用車の普及、いわゆる“マイカー・ブーム”の一方で、資本の自由化および乗用車の輸入自由化への対処が緊急の課題となっていた1960年代後半の日本の自動車市場。この状況下で御三家といわれるトヨタ自動車工業、日産自動車、いすゞ自動車は、技術力の向上や競争力の強化を図る目的で、新しい高性能スポーツモデルの開発を鋭意推し進めた。

 トヨタ自工の高性能スポーツ車の企画は、ヤマハ発動機と共同で手がけられた。試作版は、まず1965年10月開催の第12回東京モーターショーにおいて「トヨタ2000GT」の名で初公開される。1966年5月には、完成度を高めたプロトタイプが第3回日本グランプリに参戦して3位に入賞。翌6月の鈴鹿1000kmレースでは、クラスのワンツーフィニッシュを達成した。また、同年10月には茨城県の谷田部高速試験場において高速耐久トライアルを敢行し、3つの世界記録と13の国際新記録を樹立する。

 公開の場でのレース参戦やテストを展開したトヨタ2000GTは、1967年5月になってようやく販売が開始される。X型バックボーンフレームと前後ダブルウィッシュボーンサスペンションの上に被せられるボディは、リトラクタブルライトを配したロングノーズ&ファストバックの流麗なスタイリングで構築。内装の演出も豪華で、ローズウッド材のインパネやレザー表地のバケットシートなどを奢っていた。エンジンには新開発の3M型1988cc直6DOHCを搭載する。
 市販に移された2000GTは、その車両価格でも大きな注目を集める。トヨタの旗艦であるクラウンの約2倍となる238万円という値札をつけていたのだ。2000GTは技術力の高さと同時に、高嶺の高級GTとしても市場に印象づけられたのである。

神話を伝説に発展させたレースの“R”

 トヨタの最大のライバルの日産は、1969年2月にレースへの参戦を主眼に置いた「スカイライン2000GT-R」(PGC10型)を発表する。S54Bと同様の“赤バッジ”を付けた4ドアボディには、レーシングプロトR380用のGR8型のシリンダーブロックを土台にしながら数多くの新設計パーツを組み込んだS20型1989cc直6DOHC24Vエンジンを搭載した。内装については、バケットシートに赤いホーンボタンを配した3本スポークステアリング、240km/hの速度計と1万rpmまでの回転計など、専用パーツが目白押し。トリム類はブラックを基調とし、インパネとセンターコンソールには木目調パネルを装着した。

 1969年5月開催の'69JAFグランプリレースを皮切りに、1970年シーズン終了時までに連勝記録を35にまで伸ばしたGT-Rは、さらなる戦闘力アップを目指して新設計の2ドアハードトップに切り替える方針を打ち出す。ボディをコンパクトかつ軽量に仕立て、しかも車高を低くして空力特性も向上させたハードトップ版GT-Rは、1970年10月に市場デビューを果たした(型式はKPGC10)。
 新形状のグリルとリアオーバーフェンダーを装着したハードトップ版GT-Rは、1971年3月開催の全日本鈴鹿自動車レースで初陣を飾り、見事にデビューウィンを果たす。その後も連戦連勝を続け、市場では「スカイラインがレースに負けるとニュースになる」とまで称されるようになった。

世界中にインパクトを与えた“高貴なレディ”

 日産のもう一つのスポーツカー、フェアレディは1969年11月にフェアレディの全面改良を実施し、アルファベットの最後の文字で究極を意味する“Z”のサブネームを付けた「フェアレディZ」を発売する。

 開発陣は当初、フェアレディSP/SRのようなオープンカーを予定していた。しかし、最大の市場であるアメリカでは安全基準が厳しくなり、さらにGTカーとしての快適性もより重視されているという情報から、ハッチゲートを持つファストバッククーペのボディ形状に変更する。また、基本スタイリングはロングノーズ&ショートデッキで構築し、鋭く尖ったノーズに中央部を盛り上げたエンジンフード、フェンダーを抉るようなヘッドライト基部など、各部に独自のアレンジを施した。内装ではブラックのカラーを基調に、立体感あふれる一体成形インパネやサポート性を高めたヘッドレスト一体型のバケットシートなどを装備する。エンジンはL20型1998cc直6OHCとS20型1989cc直6DOHCを搭載。米国仕様ではL24型2393cc直6OHCを設定。“Z-CAR”と呼ばれ、瞬く間にマニアの憧れとなった。

流麗かつ豪華な4シータークーペのデビュー

 ベレットなどの開発で乗用車メーカーとしての地位を築いていたいすゞ自動車は、1960年代後半に入ると上級指向の車種を追加設定していく。1966年10月開催の第13回東京モーターショーでは、「117スポーツ」と「117サルーン」という2台の参考出品車を披露。117サルーンは1967年11月に「フローリアン」として、117スポーツは1968年12月に「117クーペ」として市販に移した。

 117クーペの市販化が遅れたのは、ギア社のジョルジエット・ジウジアーロが手がけた流麗なスタイリングを再現するのが大仕事だったからだ。このためにいすゞは、イタリアから名工の誉れ高いジョルジオ・サルジョットを招聘し、技術指導の顧問に据える。サルジョットの指導を受けた職人たちは、ほぼハンドメイドで市販版のボディを仕上げていった。一方、開発陣は内装の仕立てにもこだわり、厳選した木目パネルや全席ヘッドレスト付きレザーシートなどを配して豪華さを創出。エンジンには新開発のG161型1584c直4DOHCユニットを採用する。結果として117クーペは月産50台、車両価格172万円という高級クーペとして独自のポジションを築き上げた。