5ターボ2 【1983,1984,1985】

WRC制覇を目指して開発されたミッドシップ仕様の5

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新世代コンパクトカー5(サンク)のデビュー

 個人消費と輸出需要の伸びを原動力として、順調な成長を遂げていた1970年代初頭のフランス経済。その流れに呼応するように、自動車ユーザーの多様化や上級化も進んでいた。フランス最大の自動車メーカーであるルノー公団は、市場動向を確実に察知し、中心車種であるベーシックカーの刷新に取り組む。そして1972年1月になって、4(キャトル)に代わる新世代小型車の「5(サンク)」を市場に送り出した。

 5は開発期間やコストを考慮して基本メカニズムを4から流用する。パワートレインは782cc/956ccの直4OHVで、フロントセクションに縦置きでレイアウト。その前にギアボックスおよびファイナルを置いて前輪を駆動する。サスペンション形式は前ダブルウィッシュボーン/縦置トーションバー、後トレーリングアーム/横置トーションバー。リアのトーションバー長を車幅いっぱいに設定(バネ定数を下げて有効なストローク量を確保)し、同時に室内空間を浸食しないように左右のバネを30mm前後してアンカーした結果、ホイールベースは右2404mm/左2434mmとなった。

 一方、スタイリングは4と大きく異なっていた。ボディ形状は2ドア+リアゲートの3ドアハッチバックで、それまでのフランス製コンパクトカーの定番だった4ドア+リアゲートから一変させる。フランスでも始まっていた核家族化の波、そしてパーソナルカーの需要増大をルノーは睨んでいたわけだ。フォルム自体は台形を基本としたシンプルなもので、前後のバンパーにはいち早く樹脂材を用いる。角形のヘッドライトや縦長のリアコンビネーションランプなども斬新な印象を与えた。内装デザインも近代化され、独立したメーターパネルやセンターパネル、クッション厚とサポート性を高めたシートなどを装備した。

 市場に放たれた5は、たちまち大ヒットし、フランスのみならずヨーロッパ市場でのベストセラーカーへと発展する。この人気に呼応するように、ルノーは5のバリエーションを拡大。1974年には1289ccエンジンを積む上級仕様を追加し、1976年になるとルノー・スポールがチューニングを手がけたスポーティバーションの「5アルピーヌ」をリリースした。

5ベースでラリーに勝つための市販車を開発

 5アルピーヌは1977年開催のサンレモ・ラリーを皮切りに、世界ラリー選手権(WRC)の舞台に参戦する。デビュー戦では7位に入り、翌1978年開催のモンテカルロ・ラリーでは2位と3位に食い込む。さらに1979年開催のアクロポリス・ラリーでは4位、ツール・ド・コルスでは2位に入賞した。グループ2マシンとしては珠玉の速さを見せた5アルピーヌだったが、開発部隊のルノー・スポールは決して満足していなかった。総合優勝を狙える高性能なグループ4マシンで参戦したい−−。その意欲は、一大プロジェクトに発展していく。5をベースとするラリー専用のグループ4カーを開発する旨が社内で決定されたのだ。

 5をグループ4マシンにモディファイするに当たり、ルノー・スポールの開発陣はまず運動性能に優れるミッドシップエンジン+リアドライブに仕立てる方針を打ち出す。エンジン自体は1397cc直4OHVユニットにギャレット・エアリサーチ社製T3ターボチャージャーを組み込み、燃料供給装置にはボッシュ製Kジェトロニックを、トランスミッションには5速MTをセット。そしてFFの5に対して動力源を180度回転させ、リアパッセンジャーエリアに当たる部分をエンジンルームに置き換えてミッドシップ搭載した。エンジンスペックは最高出力が160hp/6000rpm、最大トルクが22.5kg・m/3250rpmを発生する。

造形はリアがワイドなシルエットフォーミュラ風

 強力なエンジンを支えるシャシーは、5用をベースに大幅な変更を施す。サスペンションは前後ともに専用セッティングのダブルウィッシュボーン式で構成し、フロントにはトーションバーを、リアにはコイルを装備した。また、有効なトラクションを確保するためにトレッドを拡大。とくに駆動輪となるリアは1474mmにまでワイド化し、シルエットフォーミュラ風のアグレッシブなフォルムを構築する。

 タイヤはフロントに190/55HR340、リアに220/55VR365サイズを装着。ブレーキには4輪ベンチレーテッドディスクを奢った。ボディはルーフやドア、リアゲートなどにアルミ材を、前後フェンダーとフロントフードにFRP材を取り入れて軽量化を実現。同時に、ブリスター形状のリアフェンダー前部にはエアのインレットを、後部にはアウトレットを組み込み、エンジンの冷却効率を引き上げた。

生産性を高めたターボ2をリリース

 ルノー・スポールの渾身作となるラリー用マシンは、1978年開催のパリ・サロンに「5ターボ」の車名で初披露される。市販モデルは1980年に発売し、グループ4のホモロゲーション取得に必要な400台を大きく上回る1800台あまりが製造された。また市販版では、スタイリングやパフォーマンスと同時に内装デザインにも注目が集まる。レッドやブルーを基調とした鮮やかなカラーリングにL字型スポークのステアリング、機能ごとに区切ったメーターパネル、特異な形状のヘッドレスト一体型バケットシートなど、アバンギャルドな雰囲気が満点だった。

 5ターボはルノー車のイメージを引き上げる1台に成り得る−−そう判断した経営陣は、5ターボの継続販売を決定し、同時に生産性を高めて車両価格を引き下げる旨を決定する。この要請に対し、ルノー・スポールの開発陣はルーフなどのアルミ材をスチール材に変更したり、前ダブルウィッシュボーンのアームを鋼管から鋼板プレス製に変えたり、内装パーツを5アルピーヌ用に置き換えるマイナーチェンジを実施した。

 生産性を高めた5ターボは、1983年に「5ターボ2」として市場デビューを果たす。車両価格は初期モデル比で25%近く安くなり、販売台数は順調に伸びた。

世界ラリー選手権での戦績は−−

 WRCでのグループ4のホモロゲーションを取得した5ターボは、1980年シーズンのツール・ド・コルスで初陣を飾り、ブルーノ・サビー選手が4位に入るという好スタートを切る。1981年シーズンでは、モンテカルロ・ラリーでジャン・ラニョッティ選手が総合優勝。続く1982年シーズンではツール・ド・コルスでラニョッティ選手が2度目の優勝を果たしたほか、モンテカルロ・ラリーで5位と6位、アイボリー・コーストで4位に入った。ここまでのシーズンは初期型の5ターボをベースとしたコンペティションモデルが使われ、仕様としては180hpを発生するファクトリーエンジンを搭載した「セヴェーヌ」や250hpを発揮する「マキシ・グループ4」が設定される。

 1983年シーズンになるとWRCにグループB規定が導入され、5ターボはこのカテゴリーで戦うこととなる。使用マシンには285hpのファクトリーエンジンを積む「ツール・ド・コルス仕様」を用意するが、ランチア・ラリー037やアウディ・クワトロA1といった強力なライバルが台頭し、ツール・ド・コルスで5位に入るのがやっと。続く1984年シーズンも、モンテカルロで4位、ツール・ド・コルスで3位と、優勝には手が届かなかった。

闘う最終進化版、マキシ5ターボの高い実力

 このまま衰退してしまうかに見えた5ターボ。しかし、1985年シーズンになるとルノー・スポール本隊が底力を発揮する。エンジン排気量を1527ccにまで拡大する(最高出力は350hp)と同時に、シャシーの強化やボディの軽量化などを図った改良版コンペティションマシンの「マキシ5ターボ」を開発したのだ。名手ラニョッティ選手のドライブによってツール・ド・コルスで初陣を飾ったマキシ5ターボは、プジョー205T16などの高性能4WDを相手に快走し、見事に総合優勝を獲得した。

 マキシ5ターボは続く1986年シーズンにも参戦し、ツール・ド・コルスではフランソワ・シャトリオ選手がドライブして2位に入る。しかし、このラリーではランチア・デルタS4を駆るヘンリ・トイボネン選手とコ・ドライバーのセルジオ・クレスト選手が事故により亡くなってしまった。一方、この年はプライベーターの5ターボが優勝する1戦もあった。第3戦のポルトガル・ラリーである。ただし、このポルトガルではフォードRS200を駆るヨアキム・サントス選手がコントロールを失って観衆に突っ込み、3名が死亡、30名以上が負傷するという大惨事が発生し、事故後にワークスチームはラリーを撤退。最終的に5ターボを駆る地元のヨアヒム・モウティンホ選手が優勝する形となったという経緯があった。

 多発する死亡事故を鑑みたFIAはグループBの廃止を決定。1987年シーズンからWRCのトップカテゴリーは、よりロードカーに近いグループAに移行した。一連の流れのなかで、“ラリーに勝つための市販車”として開発された5ターボも役目を終え、その車歴に幕を閉じたのである。