レガシィ 【1989,1990,1991,1992,1993】

スバルの技術と情熱を凝縮したハイパフォーマンスモデル

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すべてを革新した中核モデルの模索

 世界市場で“Japan as №1”と謳い、経済指標についても好成績を記録し続けていた1980年代後半の日本。もちろん、自動車産業でも多くのメーカーが大幅な増益を達成していたが、一方で富士重工業(現SUBARU)だけは業績が振るわなかった。高コストの生産体質やヒット作の欠如、そして海外市場への出遅れ……要因は色々と挙げられた。

 打開策として富士重工の首脳陣は、世界的に量販が見込める2リッタークラスの新型車を開発する戦略を打ち出す。開発陣には、「造るのは世界に通用する国際戦略車。白紙状態から、すべて自由に設計せよ」という命題が与えられた。この“すべて”とはエンジンや駆動機構、シャシーといったハード面も含まれており、すなわち伝統の水平対向エンジンや4WDを採用しなくてもいいという意味を持っていた。

 すべてを自由に--。開発コード“44B”と名づけられたプランに対し、開発陣はあえて伝統の水平対向エンジンと4WDの採用を決断する。完成度が高く、しかも他社とは違う世界戦略車に仕上げるためには、未知の機能やハードを追うのは得策ではない。開発でも生産技術でも多くのノウハウを持ち、しかも競合車とは異なる個性を有する水平対向エンジンと4WDを受け継ぐのが最良の方法、と判断したわけだ。もちろん、既存のメカニズムをちょっと手直ししただけで採用するわけではない。社運をかけた新型車には、世界をリードする完全新設計の水平対向エンジンと4WD機構を搭載する方針が打ち出された。

新しい水平対向エンジンの開発

 新型車の核となる新しい水平対向エンジンの開発テーマには、“高性能・高品質の実現”を掲げる。この目的を達成するために、開発スタッフは高いエンジン剛性と強度の確保を目指した。材質、形状、表面処理などを徹底研究しながら新ユニットの仕様を策定し、同時にシリンダーブロックはコンパクトな立方体を左右から組み合わせるという構造・形状の最適化を図る。最終的には、クローズドデッキおよびフライホイールハウジング一体構造のアルミ製シリンダーブロックを完成させた。また、クランクシャフトを支えるベアリングは従来のEA型系の3カ所から5カ所に増やし、高出力に耐え得る仕組みとする。

 エンジンの燃焼効率に関しても、開発陣はこだわった。それまでのEA型系ではDOHCヘッドを組み込めないことなどがネックとなっていたが、それを是正するために新ユニットでは余裕をもった設計を施し、後の改良や排気量拡大に対応できる構造とする。またバルブシステムは1気筒あたり4バルブに(すべてのバルブにハイドロラッシュアジャスターを装備)、プラグ配置はセンターに、点火コイルは各気筒独立に設定した。さらに、開発陣はターボチャージャーとの相性も重視。大容量・高速型の水冷インタークーラーを組み込むなどして、本格的なスポーツユニットに仕立てる。

 燃料供給装置については、上級ユニットにマルチポイント・シーケンシャルインジェクションを、ベーシックユニットにスロットルボディインジェクションをセットした。新設計エンジンと組み合わせるトランスミッションについては、小気味いいシフトフィーリングを実現した縦置きの5速MTとオールレンジ電子制御式の4速ATを設定する。注目の4WD機構はMTにビスカスLSD付きのセンターデフ式を、ATに電子制御多板クラッチを備えたトルクスプリット式を導入した。

ボディタイプはセダンとワゴンの2種

 シャシーに関しては、フロントサスペンションにL型ロワアームのストラット、リアにパラレルリンクのストラットを採用する。また、加減速時の姿勢変化を抑える目的でアンチダイブおよびアンチリフトジオメトリーを取り入れた。

 開発陣はスタイリングの演出についても注力する。ボディタイプは4ドアセダンと5ドアワゴンの2種類を設定。2ボディともに基本フォルムをくさび形で仕立て、同時にセダンには6ライトウィンドウを、ワゴンには2段式ルーフを採用して個性を主張する。また、ブリスタータイプのフェンダーやブラックアウト化したピラー処理などで見た目のスポーティ感を盛り上げた。インテリアに関しては、“安全・快適にクルマを操る歓び”の創出をテーマに造形を手がける。具体的には、ドライバーを囲むようにアレンジしたメーターおよびセンター部や空気流路の通気抵抗を低減させたベンチレーションシステム、触感がよくサポート性にも優れたシートなどを採用した。

起死回生の新型車のデビュー

 1989年1月、富士重工の新しい中核車が満を持して発表される(発売は2月)。車名は英語で“大いなる伝承物”を意味する「レガシィ」を名乗った。ボディタイプは前述のように4ドアセダン=ツーリングセダンと5ドアワゴン=ツーリングワゴンの2タイプを設定する。注目の水平対向4気筒エンジンはEJ18型1820cc・OHC(110ps/15.2kg・m)、EJ20型1994cc・DOHC(150ps/17.5kg・m)、EJ20-T型1994cc・DOHCターボ(220ps/27.5kg・m)の3機種で、いずれも16バルブヘッドや各気筒独立点火コイル、センタープラグ配置などを採用した。

 駆動方式はツーリングワゴンが4WDのみで、セダンは4WDと2WD(FF)を用意する。最強グレードに据えられたのはEJ20-T型エンジンを搭載するセダンの「RS」で、キャッチフレーズには“ハンドリングセダン”を呼称。専用チューニングの足回りに4輪ベンチレーテッドディスクブレーキ、シックなデザインながら確実に効果を発揮するエアロパーツ群、MOMO製本革巻きステアリング、フロントスポーツシートなどを身にまとったRSは、大人の走り好きを中心に熱い支持を集めた。

10万kmトライアルで実力をアピール!

 富士重工はレガシィのティーザーキャンペーンとして、FIA公認の10万kmスピードトライアルを1989年1月に実施する。米国アリゾナ・テストセンター(ATC)において実施されたトライアルは、昼夜連続19日間、平均速度223.345km/hで走破。2つの世界新記録(10万km平均速度/5万マイル平均速度)と13の国際記録(カテゴリーA クラス7)を樹立した。この実績を讃えるよう、発表時には「磨いてきたのは、走りです」というコピーを掲げ、その高性能ぶりと耐久性の高さを声高に主張したのである。

4WDワゴン・ブームを牽引

 富士重工の新しい中核車であるレガシィは、RVブームの後押しもあって、とくにツーリングワゴンの人気が徐々に高まり始める。そして1989年10月にターボチャージャーの変更などを実施して扱いやすさを増したEJ20-T型エンジン(200ps/26.5kg・m)を積む「GT」グレードが設定されると、その人気は爆発的なものとなった。

 この勢いを維持しようと、富士重工はレガシィのバリエーションを積極的に拡大していく。1991年5月のマイナーチェンジでは内外装の意匠変更を図るとともに、上級グレードの「ブライトン」を設定。1992年6月のマイナーチェンジでは、レガシィ初の3ナンバー車であるツーリングワゴン「ブライトン220」を追加する。また、モータースポーツ向けのモデルとして、1989年10月に「RS typeR」を、同年12月にSTIがエンジンチューニングを手がけた「RS typeRA」を発売した。

 レガシィのデビューを契機に、富士重工の業績は急速に回復していく。1990年3月期決算では営業損益で200億円以上の赤字だったものが、1991年以降は大幅な黒字を計上した。この数字は、競合メーカーの羨望を集めた。もちろんレガシィ、とくにツーリングワゴンの大ヒットをライバルが黙って見過ごすはずがない。新しいワゴンが、相次いで市場に投入される。しかし、レガシィの牙城は崩せなかった。レオーネから続くステーションワゴン造りのノウハウが商用車のバンの域を超えられないライバル車を凌駕し、さらに低重心で独特のフィーリングが味わえる水平対向エンジンや卓越した路面追従性を示す先進の4WD機構がクルマ好きのハートをがっちりと掴んでいたからである。

 首脳陣の英断と開発陣のこだわり、さらにRVブームの追い風にも乗った初代レガシィは、結果的に富士重工の業績回復を担う牽引車となった。その意味で初代レガシィは、6連星の“躍進の象徴”ともいえるシンボリックなモデルなのである。

レガシィRSを駆ってWRCに本格参戦

 富士重工業は1988年4月に同社のモータースポーツ活動を統括する子会社のスバルテクニカインターナショナル(STI)を設立する。STIはレガシィによるFIA公認の10万kmスピードトライアルを企画し、1989年1月には米国アリゾナ・テストセンター(ATC)において平均速度223.345km/hという世界速度記録を樹立した。この勢いを駆って、STIはかねてからの希望だったWRC(世界ラリー選手権)へのフル参戦を決断。1989年には英国の名コンストラクターのプロドライブとパートナー契約を結び、レガシィRSをベースとするグループAマシンの開発に勤しんだ。

 WRCへの本格参戦は1990年の第6戦のアクロポリス・ラリーから。ドライバーはM・アレン選手やP・ボーン選手らが務めた。1990年は第7戦ニュージーランドでボーン選手が5位、第9戦1000湖でアレン選手が4位、第10戦オーストラリアでボーン選手が4位に入賞する。

 翌1991年シーズンではドライバーにA・バタネン選手が参加。第2戦スウェディッシュ・ラリーでアレン選手が3位、第3戦ポルトガルでアレン選手が5位、第7戦ニュージーランドと第10戦オーストラリアでアレン選手が4位、第14戦RACでバタネン選手が5位に入るなど、徐々に戦闘力が高まっていた。
 1992年シーズンになるとC・マクレー選手が参戦。第2戦スウェディッシュでマクレー選手が2位、第6戦アクロポリスでマクレー選手が4位、第9戦1000湖でバタネン選手が4位、第14戦RACでバタネン選手が2位に入賞する。このころになると、レガシィRSは“グラベルの雄”として一目置かれようになっていた。

 1993年シーズンは夏ごろに次期戦闘マシンであるインプレッサWRXにスイッチすることが決まっており、レガシィRSとしては最後の参戦シリーズとなる。熟成が進んだレガシィRSは、第2戦スウェディッシュでマクレー選手が3位、第3戦ポルトガルでアレン選手が4位、第5戦ツールド・コルスでマクレー選手が5位に入るなど、安定した速さを見せつける。そしてレガシィRSでの最終戦となる第8戦ニュージーランドにおいて、なんとマクレー選手が総合優勝を果たしたのだ。レガシィにとっても、またスバルとSTIにとっても、念願のWRC初優勝。まさにレガシィは“有終の美”を飾ったのである。