三菱の歴史3 第三期/1977-1986 【1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986】

国内No.3の自動車メーカーへと躍進

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軽自動車からハイオーナーカーまでを手掛ける
フルラインメーカーに発展した三菱自動車は、
1970年代後半に入ると、さらなる販売網の拡大と
車種ラインナップの充実を図っていく。
クルマ自体もいっそう個性的になり、
とくにRVの分野では先陣を切るメーカーとなった。
■車種ラインナップと販売網の拡大

 1970年代半ばまでの三菱自動車のクルマは、「性能はいいが、スタイルがちょっと地味」という印象がつきまとっていた。しかし1976年5月に登場したギャランΣ、その6カ月後に追加されたギャランΛのデビューによって、地味なイメージは完全に払拭される。この傾向は1970年代末から1980年代にかけてさらに強まり、一般ユーザーからは「個性的なクルマを開発するメーカー」として徐々に認知されるようになっていった。

 販売網も大きく拡大する。1978年には新チャンネルのカープラザ店を開設し、109社(186拠点)が一斉に営業を開始した。さらにこの年の2月、ニューモデルのミラージュがデビューする。ハッチバックボディの小型自動車としては後発組だが、そのぶんライバル群を凌ぐ居住性を持ち、副変速機付きギアボックスという凝ったメカニズムも採用していた。

 1979年に入ると、3月にランサーがフルモデルチェンジを実施して、ランサーEXに生まれ変わる。サブネームのEXはエクシード(超える、卓越するの意)の略で、ギャランΣとミラージュの中間に位置する新世代三菱車であることを表現していた。さらに6月には“バニング”のベースとして人気の高かったデリカが2代目に移行している。ちなみに1979年は三菱自動車の年間生産台数がついに100万台を越え(約100万5000台)、念願の100万台メーカーに仲間入りした記念すべき年ともなった。

 1980年は4月にギャランΣ/Λシリーズがフルモデルチェンジを敢行し、より上質なサルーン/クーペへと変身。サイレントチェーン式4WDトランスファーを備えたフォルテ4WDも、この年にデビューしている。81年に入ると、8月に軽自動車のアミが大規模なマイナーチェンジを実施。車名もアミ55からアミLに変更する。11月にはランサーEXに1800ターボを追加し、“ランタボ”の愛称で走り屋の大注目を集めた。

■レジャービークルの積極的な開発

 1982年、三菱自動車はCIの一環としてフロントエンブレムに“MMC”マークを採用する。MMCは社名の英語表記の頭文字をとったものだった。このエンブレムが最初に装着された新車は2月にデビューしたトレディア/コルディアで、トレディアは3ボックスセダン、コルディアは3ドアハッチバッククーペのボディを採用していた。

 1980年代前半は、その後の三菱自動車の活動を決定づける大きな核が出現した時代でもあった。その核とは、レジャービークルといわれるモデル群である。1982年4月にはフォルテ4WDのパワートレーンをベースにしたクロスカントリー4WDのパジェロがデビュー。同年10月にはデリカに4WDモデルが加わっている。新世代ミニバンのシャリオが登場したのは1983年2月。三菱自動車らしく4WD車やターボ仕様(同年7月に追加)という個性的なモデルもラインナップした。この時期のRVに対する三菱自動車の積極的な姿勢は市場で大いに受け入れられ、やがてRVの先駆的なメーカーとしてファンに知られるようになっていく。

■海外進出とラリーでの活躍

三菱自動車はRVに力を入れる一方、スポーツモデルの開発にも熱心だった。1982年5月には新世代スペシャルティカーのスタリオンがデビュー。その戦闘的なスタイリングは、クルマ好きの大注目を集めた。1983年8月にフルモデルチェンジしたギャランΣ/エテルナΣ、同年10月に新型に切り替わったミラージュとランサー・フィオーレなども、走りの性能が大きく向上している。

 このころの三菱自動車は海外での活動にも積極的だった。1983年1月開催のパリ~ダカールラリーではパジェロが初出場し、無改造車クラスで優勝。その後も連続して出場し続け、1985年には総合優勝を成し遂げている。ちなみに1984年にはモータースポーツ活動を担うラリアートが設立された。

 海外事業としては1981年に米国三菱自動車販売(MMSA)を設立したのを皮切りに、1982年には三菱商事と共同で韓国の現代自動車に資本参加。1983年にはマレーシア重工業公社と国民車合弁事業(後のプロトン)の契約を取り交わす。1984年に入ると、アメリカに建設していたデザインセンターやテストラボが完成した。1985年にはクライスラー社と合弁会社(後のDSM)を設立。ついにアメリカで乗用車の生産を行うことになった。