グロリア 【1967,1968,1969,1970,1971】

縦目4灯。プリンス自動車の遺産



業績好調の日産自動車は、
その勢いを誇示するような政策を
1966年8月に実施する。
独自の高い技術を持ち、
レースの世界でも活躍していた
プリンス自動車工業の吸収合併だ。
合併後の1967年4月、
プリンスの最上級車種だったグロリアが
「日産グロリア」の名でデビューする。
日産自動車とプリンス自動車の合併

 1960年代の初旬、当時の政府から自動車業界を震撼させるコメントが発せられる。「1965年から乗用車の輸入自由化を実施する」という発表だ。戦後の混乱期を乗り切り、拡大成長を遂げていた日本メーカーに対して、欧米の自動車メーカーは再三、市場の開放を求めていた。政府は、まだ成長途中だった国内メーカーの保護政策を維持したいのが本心だったが、欧米の圧力には抵抗しきれず、結局1965年4月に乗用車の輸入を自由化する決断を下す(実際は1965年10月から自由化を実施)。

 この発表に対して既存の国内メーカーは、輸入車に対抗する手段を模索する。海外メーカーと資本提携するか、競合メーカーと合併するか−−。国内第2位の自動車メーカーに位置していた日産自動車は、競合メーカーとの合併を選択する。相手は業界3位の規模を誇るプリンス自動車工業だった。この合併はプリンス側から持ちかけられた話だったという。プリンスは大衆車の展開が遅れたことに加え、高コストの開発体制や施設の整備増強などが災いして会社の経営状態が年々悪化していた。

このままでは海外メーカーに対抗するのは難しい……プリンスの首脳陣は苦心の末に合併の話を日産に打診する。プリンスの高い技術力と生産車の高性能イメージを評価していた日産は、結果的にこの提案を受ける。1965年5月、日産自動車がプリンス自動車を吸収合併する形で契約が成立し、1966年8月から新体制に移行された。

開発中の次期グロリアの行方は……

 合併に際しては、まず両社でバッティングしている車種の調整が課題となった。ただし開発の最終段階に入っていたプリンスの試作車は、日産の車種構成の強化戦略もあってそのまま継続される。もちろんその量産化までの過程には、極力コストを抑えるために日産車との共用パーツを使うという指示があった。

 1967年4月、旧プリンスの高級セダンに位置づけられていたグロリアがフルモデルチェンジを果たし、「日産グロリア」の名で発表される。メインの開発は吸収合併される前から手掛けていた過程もあり、旧プリンスのエンジニアが担当していた。

 3代目に当たるA30型系グロリアで最も注目を集めたのは、そのスタイリングだった。プリンスが開発を担当し、1966年10月に発表された天皇の御料車、「日産プリンス・ロイヤル」の造形をイメージしていたのである。縦目のヘッドライトとリアコンビネーションランプ、そして直線基調のシンプルなボディライン(通称“ロイヤルライン”)の組み合わせは、高級車らしく重厚感にあふれていた。

 一方、メカニズム面では合併の影響を少なからず受けていた。リアサスペンションは先代の特徴だったドデオン・アクスルからセドリックと共通のリーフリジッドに変更。搭載エンジンはプリンス製のG7型2L直6は残ったものの、スタンダード用には日産製のH20型2L直4が積み込まれる。内外装の一部パーツなどもセドリックと共用化された。

結果的に最後の独立車種に

 3代目グロリアはデビュー後も着々と日産製パーツの使用を拡大していく。1968年10月にはATをボルグワーナー・フルオートマチックからニッサン・フルオートマチックへと一新。1969年11月にはG7型エンジンがカタログ落ちし、日産系のL20型2L直6に換装された。

 デビューから3年10カ月後の1971年2月、グロリアは早くもフルモデルチェンジを実施する。230型の型式を持つ4代目は、基本メカニズムをセドリックと共用化していた。ボディも共通で、ボンネットやグリル、エンブレムといった一部パーツでセドリックとの違いを打ち出すのみとなる。この時点でグロリアは、単独開発車ではなくセドリックの兄弟車としてラインアップされるようになったのである。

COLUMN
縦目グロリアの基礎となった プリンス・ロイヤルとは――
 3代目グロリアのデザイン・イメージとなったプリンス・ロイヤル(S390P-1型)は、合併前の1965年にスタイリングが先行発表された。完成車のデビューは合併後の1966年10月で、車名の頭には先行発表時にはなかった日産のネーミングが付く。エンジンは専用開発の6.4L・V8を搭載し、8名乗車の大型ボディを最高速度160km/hまで引っ張った。またパレード走行に対処した専用の冷却系統、防弾ガラス、電磁ドアロックなども装備する。当時のマスコミ界では「日産は天皇御料車の威信を得るために経営不振のプリンス自動車を吸収合併した」とする声もあった。