カルマンギア 【1956〜1973】

タイプⅠビートルのコンポーネントを使った流麗クーペ

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ブランドイメージを高める上級モデルの開発

 第2次世界大戦前に開発した「KdF(Kraft durch Freude=喜びを通じて力を)Wagen」を「タイプⅠ」、通称ビートルの車名に変えて再生産し、ヒット作に成長させた戦後のフォルクスワーゲン社。一方で同社を率いるハインリッヒ・ノルトホフ社長ら首脳陣は、さらなる躍進を目指してイメージリーダーとなる上級パーソナルカーの設定を検討していた。

 当初はタイプⅠのオープン2シーターモデルとなる「ヘブミューラーカブリオレ」がその地位を担う予定だったが、生産するヘブミューラー社で1949年夏に大火災が起き、工場の重要な施設を消失。結果としてヘブミューラー社は倒産へと追い込まれる。焼失を免れた材料は4シーターカブリオレを生産するカルマン社に送られ、細々と2シーターカブリオレの生産も続けられるが、それも1953年2月には中止された。

カルマン社で上級パーソナルカーを企画立案

 ヘブミューラーカブリオレに代わる上級パーソナルカーを、早急にラインアップしたい--。フォルクスワーゲン社のその要望に応えたのは、カブリオレの生産を一手に引き受けていたカルマン社だった。当初は自前でデザインした数種のプロトタイプを提案したが、フォルクスワーゲン社の首脳陣からは不合格の烙印が押される。そこでカルマン社のトップのヴィルヘルム・カルマン・ジュニアは、友人でありイタリアの代表的なカロッツェリアのギア社のオーナーであるルイジ・セグレに相談。最終的にギア社で車両デザインを手がけることとした。

 ギア社がデザインしたパーソナルクーペは、1953年にプロトタイプが完成する。エアベントがないスムージングされたフロントノーズにヘッドライトと合わせて盛り上がりを持たせた左右両端、流れようなルーフライン、ふくよかに膨らませたリアフェンダー、なだらかに下がるリアエンジンフードなど、スタイリッシュで流麗な2ドアクーペのスタイリングは、フォルクスワーゲン社の首脳陣を感嘆させた。そして時を経ずにプロダクションモデルの開発がスタートする。シャシーやエンジンなどの主要コンポーネントは開発コストや期間を鑑みてタイプⅠをベースとすることとし、製造はフォルクスワーゲン社が担当。ギア・デザインのボディはカルマン社が製造を手がけ、シャシーなどとの組み付けもカルマン社のオスナブリュック工場で行う旨が決定した。

ボディ製造会社とデザイン会社を合わせた車名で登場

 1955年8月になると、フォルクスワーゲンブランドの新しい上級パーソナルカーが1956年モデルとして発売される。車名はボディのコーチワークを担うカルマン社と車両デザインを手がけたギア社のネーミングを組み合わせて「カルマンギア」(タイプ14)と名乗った。

 カルマンギアの基本骨格は、鋼管バックボーンフレームとフロアパンを組み合わせたタイプⅠのプラットフォームフレームをベースに、フロア部やエンジンルームの拡大などを実施した改良版の全鋼製セミモノコックの2ドアクーペボディを採用する。ホイールベースは2400mmに設定。懸架機構は前後とも横置きトーションバーでトレーリングアームが吊られる構造で、フロントは上下2段式のダブルトレーリングアーム、リアはシングルトレーリングアームで吊ったスイングアクスルで仕立て、フロントにはスタビライザーを組み込んだ。Y字型に分かれたシャーシー後部にはギアボックスとデファレンシャルを兼ねたトランスアクスルおよびエンジンを搭載し、駆動レイアウトはRRで構成する。

 エンジンは1192cc水平対向4気筒OHVユニットで、パワー&トルクは30hp/7.7kg・mを発生する。タイプⅠよりも前後と幅を拡大したエンジンルームには、右側にバッテリーを配置。一方で低くされたエンジンフードの影響で、エアクリーナーはキャブレターの真上ではなくエルボーを使って左サイドに設定した。組み合わせるトランスミッションには、1速がノンシンクロの4速MTをセット。シフトレバーおよび各ペダル類はロッドやワイヤーによってコクピットからリアの動力機構に接続された。

 スタイリングはプロトタイプを基本的に踏襲するものの、実用性や生産性を踏まえて一部デザイン変更が実施される。フロント部ではノーズ左右に2本のヒゲを配したエアベントを設定。ウィンカーランプ位置はヘッドライト真下に移設する。また、前後バンパーの形状変更やリアエンジンフードへのスリットの組み込みなども行った。さらに、エンブレムとしてフロントノーズに“VW”マーク、リアフードに“KARMANN ghia”、そして右フロントフェンダー後方にカルマンとギアの社章を組み合わせた専用バッジを装着する。内包する2+2のインテリアでは、専用アレンジのインパネにメーター類、脚パイプを省いてローポシジョンとした専用シートなどを採用。ステアリングや灰皿といったパーツは、タイプⅠから流用されていた。

市場の要請に合わせて内外装や機構を着実に改良

 実用重視のタイプⅠとはキャラクターを異にするカルマンギアは、その流麗なスタイリングと走りの楽しさ、そして他社のスポーツモデルより安めの車両価格などが好評を博し、メインマーケットのアメリカ市場を中心に販売台数を伸ばしていく。この上昇気流をさらに引き上げ、同時にフォルクスワーゲンのブランドイメージをいっそう高めようと、開発陣は精力的にカルマンギアの年次改良を図っていった。

 まず1957年9月開催のフランクフルト・ショーではカブリオレを発表し、1958年モデルとして市場に放つ。ソフトトップは3層構造で仕立てられ、2カ所のフックでフロントウィンドウフレーム上部に固定。リアウィンドウはタイプⅠのようなガラスではなく、透明な樹脂が内蔵された(1969年7月にガラスに変更)。また、1958年モデルではシリーズ全体の変更として専用品のステアリングやサンバイザーなどの装着、フロントウィンカーの刷新、オルガン式アクセルペダルの採用(従来はローラー式)などを実施した。

 1960年モデル(1959年8月デビュー)になると、内外装の大がかりなマイナーチェンジが敢行される。フロント回りではフェンダー形状を変更するとともに、ヘッドライト位置を5cmほどアップ。また、エアベントの拡大およびクロームグリルの装着を行う。リアビューではコンビネーションランプを従来の“角型テール”から大型タイプの“三日月テール”に変更。従来は固定式だったリアクォーターウィンドウは、ポップアウト式に切り替わった。インテリアではステアリング形状が再びタイプⅠと共通化され、運転席のドアパネルにはアームレストを、助手席の足元にはフットレストを装備。さらに、ウィンドウウォッシャーを新たに設定した。翌1961年モデル(1960年8月デビュー)では、1192ccエンジンの圧縮比を6.6から7.0に引き上げ、パワー&トルクが34hp/8.4kg・mへと向上する。また、キャブレターはオートチョークタイプに、燃料タンクは扁平タイプに変更。トランスミッションは4速フルシンクロに進化した。

1966年モデルでエンジン排気量を1285ccにアップ!

 1966年モデル(1965年8月デビュー)ではフラット4エンジンの排気量が1285ccとなり、最高出力は40hp、最高速度は128km/hに引き上がる。また、エンジンルーム内のバッテリーは左側に、エアクリーナーは右サイドに移設。リアトレッドは1300mmにまで広がった。ほかにも、フロントサスのジョイントの刷新(キングピン式→ボールジョイント式)やサイドミラー取付位置の見直し(フェンダー部→ドア部)、クロームパーツの拡大展開などを実施して魅力度を高めた。

 1967年モデル(1966年8月デビュー)になるとエンジン排気量が1493ccにまで拡大され、最高出力は44hp、最高速度は136km/hへとアップする。また、フロントブレーキはディスク式に進化。電装系も6Vから12Vへとグレードアップした。さらに1968年モデル(1967年8月デビュー)では、スポルトマチックと称するセミオートマチックを組み込んだ仕様がラインアップに加わる。このセミAT車はタイプⅠのセミAT車と同様、リアの懸架機構にダブルジョイントを採用していた。

1970年モデル以降は1584ccエンジンを搭載

 カルマンギアの改良は、1970年代に入っても鋭意続いていく。
 1970年モデル(1969年8月デビュー)ではエンジン排気量が1584ccにまでアップし、最高出力は50hp、最高速度は140km/hへと向上する。また、世界的に厳しさを増す安全基準にも対応し、1970年モデルではランプ類の大型化などを、1972年モデル(1971年8月デビュー)ではより頑丈な大型バンパー、通称“鉄道線路バンパー”の装着などを実施した。さらに、この1972年モデルでは装着パーツの近代化も図られ、4本スポークタイプのステアリングやレバー操作式ワイパースイッチ、トリップカウンター付スピードメーター、6.00-15サイズタイヤなどが採用された。

 1950年代から1970年代へと、自動車の大衆化という激動の時代を進化とともに歩み続けたカルマンギアは、1973年いっぱいでドイツ国内における生産を終了する。実質的な後継は、やはりカルマン社が生産を行う新世代ハッチバッククーペモデルのフォルクスワーゲン・シロッコ(1974年3月発売)が担った。約19年に渡ってオスナブリュック工場のラインを流れたタイプ14カルマンギアの生産台数はクーペ36万3401台、カブリオレ8万899台。フォルクスワーゲンのブランドイメージをより上級移行させたという意味で、44万4300台のカルマンギアはまさにVWのレガシー=大いなる遺産に位置するのである。

タイプⅢをベースのタイプ34カルマンギアの概要

 カルマンギアの近代化を模索したフォルクスワーゲン社は、1961年9月開催のフランクフルト・ショーの舞台でタイプⅢをベースとする新世代のカルマンギア1500(タイプ34)を発表し、後に1962年モデルとして市場に放った。

 タイプ34は、直線を活かしたフォルムにデュアルフォグランプを組み込んだフロントマスク、容量を増やしたトランクルーム、拡大したグラスエリアとエンジンルーム、緩やかな弧を描くインパネなど車両デザインを大幅刷新し、エンジンには1493㏄水平対向4気筒OHV(45hp)ユニットを積み込んで最高速度140km/hを発生した。

 より速くて豪華になった新しいカルマンギアは、残念ながら販売台数が伸び悩む。アメリカ市場を意識した個性的なスタイリングに拒否反応を覚えるユーザーが予想外に多かったのだ。それでも開発陣は、懸命にタイプ34の改良を図っていく。1964年モデルでは、ツインキャブレターを装備したうえで圧縮比を高めて最高出力を54hpとしたSグレードを発売。1966年モデルでは1584㏄水平対向4気筒OHV(54hp)エンジンを搭載し、同時にフロントブレーキをディスク化するなどしたカルマンギア1600をラインアップした。

 1967年モデルになると、木目調パネルを採用するなど装備のグレードアップを実施。1968年モデルでは、オートマチックトランスミッションやIRSサスペンションをオプション設定した。装備や機構などを積極的にリファインしていったタイプ34だが、残念長らく人気上昇にはつながらず、1969年7月には生産を中止。総生産台数は、タイプ14よりもはるかに少ない4万2505台にとどまったのである。