セラ 【1990,1991,1992,1993,1994,1995】

自由な発想を満載したガルウイング・スペシャルティ

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見る者を虜にした夢拡がる新感覚デザイン

 トヨタのフレッシュな感性が生んだスペシャルティモデル、セラのルーツは、1987年の東京モーターショーに展示されたコンセプトカーのトヨタAXV-IIだった。モーターショーに展示されるコンセプトカーは、ボディだけを作り込んだ実際には走らないモデルも多い。しかしトヨタAXV-IIは通常の量産モデルをベースにしていたため、普通に走らせることが可能だった。ベースになったのはFFレイアウトで1.3リッターエンジンを積むコンパクトカーのスターレット。ホイールベースも2300mmと共通だった。エンジンや駆動系もそっくり移植されていた。

 AXV-IIの最大の特徴は、天井部分まで大きく回り込んだドアが、ランボルギーニ・カウンタックのように、Aピラー上部とルーフ部分をヒンジとして斜め上方に開口すること。つまりガルウイングドアを採用していた。ウインドウは天井部分までひと続きになっており、ウエストライン上部には開閉可能な部分が設けられていた。またロールバー状のBピラーを挟んで曲面ガラスのリアハッチがビルトインされ,クーペフォルムながら,なかなかの実用性も加味されていた。ちなみに乗車定員は4名だったが、あくまで前席優先設計だった。

 ワインメタリックとシルバーの2トーンカラーで仕上げられたコンセプトカーは、東京モーターショーのトヨタ・ブースで大いに注目を集めた。多数の「いつ市販するのか」という質問が寄せられたという。個性的なガルウイングドア、そして楽しそうな雰囲気が人気の要因だった。AXV-IIは数年後に現実のものとなる。

開発コンセプトは「ライブ&パフォーマンス」

 AXV-IIは、トヨタの“ヤングプロジェクト”の果実だった。ヤングプロジェクトとは、次世代のモータリーゼーションを担う若者層の心を捉えるモデルを新規開発する取り組み。既存のトヨタ車とはまったく違う手法を用い、1983年に東京を起点に商品企画がスタートする。スタッフは、柔軟な発想をする若手が中心だった。
 1980年代初頭は、マツダのFFファミリアが大ヒットを飛ばし、ホンダもシティを登場させるなど、斬新なフレッシュモデルが市場を牽引していた。そんな中でトヨタは、個性的で新鮮なイメージのクルマが手薄だった。ヤングプロジェクトは、トヨタの商品企画の活性化を目指した動きでもあった。

 チームは様々な試行錯誤の後、コンセプトを「ライブ&パフォーマンス」に決定する。そして自由で、素直に感動できるクルマの開発を目指した。高度なメカニズムでなくても、非日常性、意外性が味わえるクルマ、具体的には軽飛行機のようなグラッシーなキャビンを持つお洒落なクーペである。こだわったのは、乗り込むだけでフルオープンのような開放感と、胸躍る臨場感が感じられること。その実現のために生み出されたのがガルウイングドアだった。AXV-IIほど、ドアを開けた姿がアトラクティブなコンパクトクーペはなかった。ガルウイングドアは、自由の象徴であり、最大の個性だった。

1989年のモーターショーで市販型を披露

 大好評だったAXV-IIは、ショーの後、早速市販化に向けての本格準備に取りかかる。
 シャシーは開発の途中だった4代目スターレットや3代目ターセル&コルサ用をベースにする決断を下す。被せるボディはコンセプトカーの具現化を目指し、ルーフ部にまで回りこむガルウィングドアとサイドガラス、そして大きな3次曲面リアガラスを組み込んだパノラミックハッチを採用した。ドアの操作性やボディ剛性、さらに安全性といった項目も重視し、幾度となくテストを繰り返す。ガラス自体の遮熱性にもこだわった。全体のスタイリングは曲面基調で構成し、AXV-II以上にスポーティなフォルムに仕上げた。

 一方、エンジンはスターレット用の4E-FE型1.3リッターユニットをそのまま流用するわけにはいかなかった。ガルウィングドアの剛性確保やグラッシーなキャビンを採用した結果、ボディが重くなってしまったのだ。外観はスタイリッシュでスポーティなのに、加速は悪い−−。トータルでの高性能を重視するトヨタにとって、これは改善すべきポイントだった。開発陣は鋭意、改良に着手し、4E-FE型の排気量アップを計画する。通常ならボアアップで対処するところだが、エンジニアが選んだ手法はロングストローク化だった。中低速トルクを厚くしやすい、ブロック剛性を確保できる、といった理由がロングストロークにこだわった理由である。結果的に開発されたエンジンは5E-FHE型と名づけられ、1.5リッターに拡大。新しいDOHCハイメカツインカム・ユニットは110ps/13.5kg・mのパワー&トルクを誇った。

 市販型は、1989年秋、それまでの東京の晴海貿易センターから、千葉県幕張メッセに会場を移して最初の開催になった第28回東京モーターショーに展示され、車名はセラとされた。そして1990年3月から市販されることが発表された。来場者からは、AXV-II以上にスタイリッシュでパワフルに変身したセラに期待する声が聞かれた。セラの前評判は上々だった。

雨でも楽しめる新感覚オープンの登場

 1990年3月、トヨタの新しい小型スペシャルティカーが満を持してデビューする。車名はフランス語のエートル(〜である)の未来形で、「未来に向けて羽ばたく夢のあるクルマ」の意を込めて“セラ”と名乗った。

 セラ最大の魅力は、ワイドなパノラマにあった。大きなウインドシールド、それと連続曲面でつながるグラッシーなキャビン。そしてなにより大開口のガルウイングドアが独自の魅力を主張した。開放感はフルオープンに匹敵した。
 既存のオープンカーとの違いは、外界と完全に隔絶していたこと。寒さ、暑さ、雨や雪といった“自然の脅威”にさらされることなく、抜群の開放感が享受可能だった。セラのオーナーは、空調コントロールが行き届いた快適な室内に身を落ち着けながら、オープンカーと同等のパノラマが満喫できたのである。雨でも雪でも開放感は抜群。夜間は視線を上に向けるだけでプラネタリウムのような星空が楽しめた。
 セラはスタイリングを眺めるだけで新しさを感じ、ガルウイングドアを開けると期待感が高まり、乗り込むと嬉しくなるクルマだった。非日常を実感できると言う点で、日本屈指の存在だった。

装備にも徹底的にこだわったお買い得車

 実際にデビューしたセラの注目ポイントは、グラッシーキャビンやガルウィングドアだけではなかった。ルーフ形状やトリムに合わせて音響解析し、最適配置のスピーカーとオーディオユニットを装着したスーパーライブサウンドシステムが注目を集める。スーパーライブサウンドシステムは、重低音の再生に優れたARW(アコースティック・レゾナンス・ウーハー、音響共振ウーハー)を含む「10スピーカーシステム」と、アンプからの音声信号をデジタル信号処理し、選択したお音場モードに則してスピーカー初期反射音と残響音を調節する「DSP(デジタル・シグナル・プロセッサー)」を採用した点が特徴だった。当時のオーディオシステムの中では、トップレベルの音響空間を創出していた。

 エクステリアもカラフルなボディカラーやプロジェクターヘッドライトビームが話題を呼ぶ。ガルウィングドアの操作性も優れたものだった。ドア操作力温度保障ステーまで追加した開発陣の努力が表れていた。
 セラの車両価格は、豪華&専用装備を実現しながら非常にリーズナブルだった。ベースグレードの5MT車で160万円、最上級のスーパーライブサウンド付き4AT車でも188万1000円に抑える。渾身の小型スペシャルティカーを一人でも多くの若者に楽しんでほしい−−。開発陣のそんな願いが、価格設定に込められていた。

市場での評判は−−

 大きな話題を集めて華々しくデビューしたセラ。しかし、販売成績は予想外に伸び悩む。当時の若者は高性能のスポーツモデルやハイソカー、クロカン4WDなどに興味を抱くケースが多く、スタイリングこそ個性的なものの走りにさほど特徴がなかったセラにあまり触手が動かなかったのだ。
 その打開策として開発陣は、セラに細かな改良を施していく。1991年5月にはボディカラーの見直しと新シート地の採用などを実施。1992年6月には再びボディカラーを見直し、同時に電気式ドアロックの標準装備化などを実施した。1993年12月には新冷媒エアコンを採用、リア3点式シートベルトを標準装備する。

 さまざまな改良を実施したセラ。しかし、販売成績はさほど改善しなかった。さらにはバブル景気が崩壊し、トヨタは業績回復のために不採算車種の整理を余儀なくされる。そして1995年末、ついにセラの生産は中止されてしまったのである。
 販売成績こそ、目覚ましくなかったセラだが、「80点主義」とか、「金太郎アメ」などと揶揄され、個性とは無縁と思われていたトヨタ車にも魅力的なクルマがあることを知らしめた価値は大きなものがあった。セラは、斬新な発想と、トヨタならでは緻密な設計が生み出した傑作だった。キャノピーキャビンとガルウイングドアを融合させ、しかもリーズナブルなプライスで提供したのだ。ワクワクするクルマを、ストレートに表現したタイムレスな存在だった。