パオ 【1989,1990,1991】

タイムレスデザインの2作目パイクカー

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パイクカー・ブームの創出

 1987年1月に限定1万台で市販されたパイクカーのBe-1は、当時の日本の自動車市場に大きな混乱をもたらした。受注は2カ月もかからずに終了。予約にもれた人は中古車、または予約を譲ってくれるユーザーを探し求め、これに業者が絡み、結果的にBe-1にはプレミアがつく。販売価格は東京標準で129.3~144.8万円としていたが、市場での取引額は200万円以上が相場だった。

「大手メーカーたるものが自動車市場の混乱を作り出した」などとマスコミからは苦言を呈されたが、高性能一辺倒でクルマを開発していた当時の傾向に日産が一石を投じ、ユーザーの支持を大いに獲得したことは確かである。クルマは先進技術やスペックだけではない。ファッショナブルで個性的な内外装を持つことも重要だ--そう確信した日産は、パイクカー第2弾の開発を決定する。そして販売時には、市場での混乱を避ける戦略を練った。

第2弾はさらにレトロ調に--

 待望のパイクカー第2弾は、1987年10月に開催された第27回東京モーターショーにおいて参考出品の形で披露される。車名はモンゴルの遊牧民の家に由来するPAO(パオ)を名乗った。
 パオの基本シャシーは、Be-1と同じくK10型マーチをベースにする。エクステリアパーツに関しては成形の自由度やコスト面を考慮して、外板の一部に樹脂パネルを使った。フロントフェンダーには射出成形の熱可塑性樹脂パネルを採用し、ボンネットにはガラス繊維を含んだSMC(シート・モールディング・コンパウンド)成形の熱硬化性樹脂パネルを奢る。さらに耐食が激しいドアやリアゲートなどには、両面処理の鋼板を使用した。防錆対策も重視され、パネル面にはフッ素樹脂塗装材、ボディの中空部分には入念な防錆シーラントを施す。Earthy Colorと呼ぶ淡い色合いのボディカラー、上下2分割式のリアサイドウィンドウ、おしゃれなキャンバストップなども注目を集めた。

 インテリアはボディ同色の鉄板インパネや懐古調のスイッチ類、アイボリー色のステアリングなどが特徴で、Be-1よりもいっそうレトロ感を強める。取り外しが可能な専用デザインのオーディオユニットなども話題を呼んだ。

Be-1での反省に立った販売方法

 パオはショー発表から1年3カ月ほどが経過した1989年1月に市場デビューを果たす。搭載エンジンはプラズマMA10S型1L・OHCユニットで、ミッションは5速MTと3速ATが選べた。生産はBe-1に続いて高田工業が担当する。

 パオはBe-1と同じく限定車の形ではあったが、限定したのは台数ではなく、受注期間であった。台数を絞って市場の混乱を招いたBe-1での反省を踏まえたのである。また日産は販売方法そのものにも力を入れる。当時ベイエリアと呼ばれた東京都中央区の勝どき橋付近に専用スペシャルショップを開設し、パイクカーの情報発信基地として積極的に活用した。またレストランやバーといったおしゃれな飲食スペースも併設する。さらにキャラクターグッズも多数用意し、パオのロゴ入りマグカップやクッション、Tシャツ、文房具などを販売した。

 最終的にパオは、約3カ月のあいだに5万台超の大量受注を記録する。このなかにはプレミア価格での販売を当て込んだ業者の予約も入っており、販売台数が予想以上に多いと知るとキャンセルする人が続出した。とはいえ4万台以上を売る大ヒット作となったことは事実で、結果的に日産自動車のパイクカー戦略はまたもや成功をなし遂げたのである。