ユーノス100 【1989,1990,1991,1992,1993,1994】

ファミリア・アスティナのユーノス版

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好景気で盛り上がる1980年代後半の日本。
各自動車メーカーはディーラー網の強化と
車種展開の拡大を積極的に推進する。
マツダは1989年に新販売チャンネルの
ユーノス系列店をオープン。
ロードスターやシトロエン車を皮切りに
次々と取り扱い車種を増やしていった。
新販売チャンネルのオープン

 後年になってバブルと言われる好景気を謳歌していた1980年代後半の日本の自動車業界。主要メーカーは豊富な資金を背景に、販売網の強化や新型車の開発を積極的に押し進める。

 FFファミリアの大ヒットなどで上昇気流に乗っていたマツダは、国内第3位の地位を確かなものとし、さらに上位のトヨタと日産に迫るための大きな賭けに打って出る。販売網の大規模な増強だ。目指したのはトヨタが展開していた5チャンネル体制の構築で、そのための車種ラインアップの拡大も画策し始めた。

 1989年4月になると、マツダは新たな販売チャンネルを一気に2拠点も設立する。ユーノス店とオートザム店だ。なかでもユーノス店のコンセプトはユニークで、スペシャルティ感あふれる斬新なスタイルのモデルやシトロエン車を手掛ける。ショップの店構えも、おしゃれでスタイリッシュなイメージで統一した。

 ユーノス店ではまず最初に2シータースポーツのロードスターが店頭に並ぶ。販売は1989年9月から開始されたが、多くのバックオーダーを抱えるほどの人気ぶりだった。さらに輸入車として店先に並べられたシトロエンBXやAXなども注目を集めた。

上級ハッチバック車の登場

 お客で賑わうユーノス店。この勢いをさらに盛り上げようと、1989年10月には2台の新型車が追加設定される。1台はペルソナの内外装を意匠変更したスペシャルティサルーンのユーノス300。そしてもう1台が、5ドアハッチバック車のユーノス100だ。

 ユーノス100は1989年2月にデビューした6代目ファミリアの5ドアハッチバック車=アスティナ(1989年4月より販売開始)がベースとなる。リトラクタブルライトを配したスポーティなルックスは基本的にアスティナを踏襲するが、専用ホイールやエンブレム、ボディ同色ガーニッシュなどを装着して上級なイメージに仕立てた。

内装も本革仕様を設定するなどして、アスティナとの違いを強調する。さらにエンジンはB5-DE型1.5L・DOHC16Vのほかに、アスティナには設定されていないBP-ZE型1.8L・DOHC16Vユニットを積み込んでいた。

バブル崩壊。ひっそりと退場

 スポーツ&スペシャルティというユーノス店のイメージにふさわしい5ドアハッチバック車−−開発陣が目指したユーノス100のコンセプトは、確かに具現化されていた。走りの評価も高く、やや固めでしっかりした足回り、追従性に優れたハンドリング、1.8Lエンジンの力強い加速などが好評だった。

 ユーノス100というエントリーモデルが用意されて、ユーノス店の販売成績はさらに伸びる−−しかし、マツダ首脳陣の目論見は残念ながら外れた。アスティナとの違いがあまりにも少ない、車両価格が割高、5ドアハッチバックの需要が少なかった……要因は色々と考えられたが、とにかくユーノス100の販売は伸び悩んだ。

 さらに、マツダに追い討ちをかけるような事態が発生する。1990年をピークに急速に落ち始めた経済状況、いわゆるバブル景気の崩壊である。ユーノス店には当初の計画通りにコスモ(1990年4月デビュー)やプレッソ(1991年6月デビュー)、500(1992年2月デビュー)、800(1993年10月デビュー)などが追加されたが、経営状態は逼迫する一方だった。

 結局、ユーノス100は一度のモデルチェンジも行われないまま、ファミリアのフルモデルチェンジとほぼ同時期の1994年にカタログ落ちしてしまう。バブル景気の中で生まれた小さな花、それがユーノス100の姿だったのである。

COLUMN
マツダのコンパクトカーを 支えたBGプラットフォーム
 ユーノス100に使われたプラットフォームは、通称「BGプラットフォーム」と呼ばれている。これは1980年代末から1990年代にかけて使用されたマツダのコンパクトカー用プラットフォームの代表作だった。主な搭載車は前述のユーノス100と6代目ファミリア(セダン/ハッチバック)のほかに、3代目フォード・レーザー(セダン/クーペ)やフォード・エスコート、マーキュリー・トレーサーといったフォード・グループ車にも使われる。またBGプラットフォームは、後継のEプラットフォームの原型ともなった。