スポーツ800 【1965,1966,1967,1968,1969】
トヨタ初のライトウェイトスポーツ
790ccの空冷水平対向エンジン(45ps)を搭載し、
軽自動車並みの軽量ボディを颯爽と走らせた。
タルガトップのオープントップを持ち、
「ヨタハチ」のニックネームで、
若者も含め、多くの自動車ファンを魅了した逸材である。
1962年の第9回全日本自動車ショーに、トヨタは一台の試作小型スポーツカーを展示した。「パブリカ・スポーツ」と名付けられたそのクルマは、まったくの試作実験車であり、量産化の計画はないと発表されていた。
しかし、回転する一段高いステージの上にあるそのクルマへの、ショーに来場した人々からの反響は大きかった。ショーの会期中から、あのクルマはいつ売り出されるのか? という問い合わせが相次いだという。
「パブリカ・スポーツ」のネーミングからもわかるとおり、そのショーモデルは、エンジンやサスペンションなどドライブトレーンを乗用車のパブリカから流用していた。このショーモデルを設計・製作したのは、トヨタ車のボディを生産開発していた関東自動車工業という会社で、そこに所属する技術者には旧 中島飛行機(現 富士重工)などの航空機生産に携わっていた人たちが多かったため、スタイルや設計思想が、航空機的なものになっていたのは至極当然であった。基本的なスタイリングデザインは、関東自動車工業のチーフデザイナーであった佐藤章蔵氏によるものであった。
エンジンは、後にマイナーチェンジした乗用車のパブリカ(UP20型)にも使われる排気量790ccの空冷2気筒ユニットで、1961年に発売されたオリジナルUPモデル(UP10型)に比べておよそ100cc拡大されていた。全体に丸みを帯びたスタイリングは、高性能の軽飛行機を想わせるものであり、ボディサイドにはドアはなく、ルーフとサイドウィンドウ、リアウィンドウが一体となって、後部トランク部分にまで後退するスライディング キャノピーが装備されていた。これだけでも、当時かなりなセンセーションを巻き起こしたことは想像に難くない。
ショーモデルであった「パブリカ・スポーツ」は、2年後の1964年の第11回東京モーターショー(前年からショーの名称が改められた)に、量産を前提としたプロトタイプが展示された。車名は「パブリカ・スポーツ」のままだったが、ボディ各部には大幅な変更が加えられていた。特徴的だったスライディングルーフは、一般的な開閉式のドアに改められ、リアピラーが残り、ルーフ部分は取り外せるようになっていた(いわゆるタルガトップだ)。サイドウィンドウは巻き上げ式となり、三角窓が付けられた。リアウィンドウは固定式となった。フロント・フェンダーにはウィンカーが突出している。
エンジンは、ツインキャブレターを装備したスポーツ仕様で、排気量790ccと最初のショーモデルと変わらなかったが、最高出力45ps/5400rpm、最大トルク6.8kg-m/3800rpmに強化されていた。車体重量は580kgと軽自動車並みに軽かった。空力的なスタイルと車体の軽量さが相まって、最高速度は155km/h、0→400m加速18.4秒と発表されていた。このクラスのスポーツカーとしても抜群の高性能であった。
プロトタイプが発表された翌1965年4月から、「トヨタ・スポーツ800」とネーミングを変更して販売が開始された。エンジンやボディスタイルなど、プロトタイプからの変更点はほとんどなかった。価格は59万2000円であったが、前年に出たホンダS600が50万9000円であり、一年後に出るホンダS800が65万3000円であったことを考えれば、十分にリーズナブルな価格設定であったといってよい。ちなみに、スポーツカーではないが、同じ時期にデビューしたスズキ・フロンテ800は54万5000円、ダットサン・サニー1000は46万円であった。「スポーツカーをみんなのものに……」というトヨタの小型スポーツカー開発の意図は、十分に達成されていた。
スポーツ800は、レースに出場させるために開発されたものではなかったが、1964年の第二回日本グランプリレースで、乗用車のパブリカがTⅡクラスで上位を独占していたこともあり、パブリカをベースとしたスポーツカーであるスポーツ800は、発売されるやそれは必然的にサーキットへも持ち込まれることになった。そして、それまでほとんどホンダS600の独壇場であったこのクラスで、ホンダの存在を脅かすことになる。
数多いレースの中でも、1965年7月18日に千葉県船橋市にあった船橋サーキットで行われた全日本自動車クラブ選手権レース大会でのGT-Ⅰクラス優勝(ドライバー:浮谷東次郎)、同年11月7日に行われた第一回鈴鹿300kmレースでのクラス優勝(ドライバー:細谷四方洋)、1966年1月16日の鈴鹿500kmレースでの総合優勝(ドライバー:細谷四方洋)などが特筆される。特に、船橋サーキットでの浮谷東次郎のドライブは、接触事故により途中でピットインし、テールエンドまで順位を下げたものの、その後上位の脱落に助けられたとはいえ、全車をラップしての優勝であった。また、鈴鹿500kmでは、燃費の悪い大型車を向こうに回し、絶対的な速度は劣るものの、空気抵抗の少なさと軽量なボディを生かしての好燃費により、ピットストップの回数と時間を節約、結果として勝利を得たものだ。いずれの場合も、「トヨタ・スポーツ800」ならではの活躍である。
しかし、レースでの活躍とは裏腹に、レーシングドライバーや自動車評論家など、玄人筋の評価は高かったが、2シーターという特殊性もネックとなって販売台数は振るわず、途中でマイナーチェンジを施した後の1969年10月に生産は中止されてしまった。生産台数は3131台だったという。おそらく、スポーツ800は、デビューする時期が30年くらい早すぎたのだ。歴史に「もしも」はないが、もしもこのスポーツ800が今存在したなら、爆発的な人気を集めたかもしれない。