2000GT 【1967,1968,1969,1970】

世界が驚いた日本が誇るサラブレッドスポーツ

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トヨタ2000GTは、欧米のコレクターからも
“クラシック”として認知されている名車中の名車。
見る者を魅了する流麗なフォルム、精緻なメカニズムもさることながら、
世界速度記録への挑戦や007シリーズのボンドカーへの抜擢など、
名車にふさわしいストーリーの持ち主だ。
トヨタ2000GT、それは成熟に向かっていた日本の「夢の結晶」だった。
2000GT誕生の伏線は初代クラウンが作った。

 第二次世界大戦後の日本での自動車工業の実質的な始まりは、1955年に発売された初代トヨペット・クラウン(RS型)と言って良い。当時は自家用車の所有など、大学新卒者の初任給が数千円のレベルに在った庶民にとっては遠い夢だったが、そんな中に100万円に近い価格の乗用車を登場させたトヨタの狙いは自分たちの持つ技術力のアピールだった。敗戦後10年を経て、徹底的な破壊と混乱の中から、ようやく自分たちの技術力だけで本格的な乗用車を生産できるまでになったのだと言うことを世界に向けて宣言したのである。

トヨタと言うメーカーは独自性が強く、その当時他のメーカーがヨーロッパやアメリカの自動車先進国のメーカーと技術提携を結んで、短期間に自動車生産技術の向上を図ったのに対して、トヨタはあくまで純国産技術での完成を目指した。その最初の結果がトヨペット・クラウンだったと言うわけだ。クラウンはその後トヨタの1ブランドとしてだけでなく、日本製の高級乗用車の代表として大きく発展して行くことになる。ちなみに、「トヨペット」のネーミングは、1947年に少数が販売された革新的な小型乗用車であったSA型の発売に当り、キャンペーンの一環として全国公募された結果決定したものだ。

すべてが衝撃だった2000GTのデビュー!

 クラウンの発売から10年を経た1965年の第12回東京モーターショーに、トヨタは突然「トヨタ2000GT」と言う名の2シーターGTのプロトタイプを参考出品した。当時は、1963年に始まった日本GP自動車レースを頂点として、モータースポーツがかつて無いほどの盛り上がりを見せ、各メーカーはスポーティーイメージを打ち出して、販売の強化を図ろうとしていた。そんな中で、トップメーカーであるトヨタが展示した「2000GT」には見る者が驚嘆したのも当然だったろう。それほど「2000GT」のデビューは衝撃的なものだった。

 1965年の東京モーターショーでは参考出品であり、詳細は発表されなかったが、翌年の1966年5月に開催された第三回日本GP自動車レースには、2台の「2000GT」がエントリーし、一台が3位に入賞した。さらに、同年6月に開催された鈴鹿1000km耐久レースでは1位、2位を独占し、高速耐久性能の高さをアピールする。そして、10月には茨城県谷田部町にある日本自動車研究所のテスト・コースで、連続78時間に及ぶ長距離耐久走行にチャレンジ、3部門の世界記録と13個の国際記録を樹立する。もはや、「トヨタ2000GT」の名声は確立されたのである。こうした地道なキャンペーンを経て、1967年5月から本格的な販売が開始された。とは言っても、トヨタにとっては「2000GT」を企業のイメージリーダーと位置づけており、決して量販を計画していたわけではなかった。販売価格は238万5500円であり、この価格は「クラウン」のほぼ2倍に相当する高価格車であった。

■トップスピード220km/h! その高性能に驚喜した。

 全くの白紙状態から計画された「2000GT」は、全ての点で他の量産モデルとは共通性を持たない、言わばスペシャルモデルとなっていた。フレームは強固なスチール製のバックボーン型で、エンジンはMS系クラウン用の水冷直列6気筒SOHCを、トヨタとレーシング部門で技術提携関係にあったヤマハ発動機の手でDOHC12バルブ化した3M型となっていた。排気量は1988cc、これにツインチョーク・ソレックス・キャブレターを3基備え、8.4の圧縮比から最高出力150ps/5500rpm、最大トルク18.0kg・m/5000rpmを発揮した。

 トランスミッションは5速マニュアルのフロアシフト、ステアリングはラック&ピニオン、サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーン型で、ブレーキは4輪サーボ付きディスク、ホイールはマグネシウム・ダイキャスト、タイヤは15インチ・サイズである。メカニズムだけを見ても、当時の国産車では初めて採用されていたものばかりであった。車重は1120kgと世界的に見ても十分通用する軽量なものだ。性能的にも国産車では傑出したレベルで、最高速度は220km/h、0→400m加速15・9秒と言われた。

日本車史上もっとも美しいスタイル。

 スタイリングは極めて美しかった。一部には既存のヨーロッパ製スポーツカーとの近似性を指摘する声もあったが、バランスに優れたデザインは、日本的な美の奥深さを感じさせるものである。現在に至るも、「2000GT」を超える独自の美しさを持ったスポーツカーは現れていない。ボディサイズは、全長4175mm、全幅1600mm、全高1170mm、ホイールベース2330mmで、今日の水準からすればかなり小さいといって良いものだ。独特のロングノーズ、ショートデッキのスタイルに実用的なファストバックと上開きのテールゲートが付けられていた。

この頃は未だ空気力学をスタイリング・デザインに積極的に取り込もうとする考え方は希薄だったから、伝統的な流線型の手法を生かしたスタイリングとなっていた。トヨタのアルファベットのイニシャルであるT字をデザインしたフロント・グリルの内側には一対のドライビングライトが埋め込まれており、ヘッドライトはフェンダー先端部にモーター駆動で起き上がるポップアップ式となっていた。ボンネットは逆アリゲーター式に開く。エアクリーナーとウィンドウウォッシャーのタンクはボディサイドの向かって右側、バッテリーは左側に、それぞれ別個の場所を設けて収められた。

ボンドカーとしてスクリーンでも大活躍!

 インテリアも高性能GTにふさわしく、豪華な造りとなっていた。対称型のインスツルメンツ・パネルは、センターコンソールとドライバー側には木目パネルが張られ、ドライバーの正面には右側に速度計が、左側にはエンジン回転計が収まる。油温や油圧、水温、燃料計、電気式時計などはセンターコンソー
ル上部に、僅かにドライバー方向に角度を付けて装着されていた。純粋にドライバーズカーとして設計されていたことが分る。シートは、乗り降りの簡易性とGTであることを考慮して、セミバケット・タイプのリクライニング機構付きの物が装備されていた。ウッドグリップの比較的大型の3本スポークのステアリングは、直立に近い角度を持っており、スポーツドライビングを容易なものとしていた。

 1969年9月にはマイナーチェンジを受け、ドライビングライト回りの意匠変更、リアリフレクターの形状変更などが施され、同時にトヨグライド・オートマチック・トランスミッションも装備可能となった。主にアメリカ市場への適応を考慮したものであった。また、映画007シリーズ「007は2度死ぬ」で、オープンに改造された2000GTがボンドカーとして活躍したことも忘れてはならない。

 スタイリング、性能などどれを取っても日本のトップクラスに在ったと言える「2000GT」だったが、他の量産車との共通点を持たなかったがゆえに、イメージリーダーとしての役割を果たすと、1970年10月に生産中止となった。生産台数は総計337台と言われているが、その相当数はアメリカを始め海外へと輸出された。近年クラシックとしての評価は、ますます高まっている。

COLUMN
速度記録車は、プロト1号車がベース!
 1966年10月、3種の世界速度記録と13の国際速度記録を樹立したトヨタ2000GT速度記録車は、プロト1号車をベースにしている。プロト1号車は量産モデルと比較してフロントフェンダーの峰がやや高い。実はこのプロト1号は市販テスト車両として使用後、第3回日本グランプリの練習走行中に炎上事故を起こしトヨタのガレージに仕舞われていたクルマ。速度記録プロジェクトにあたり、再び引き出されたのだった。関係者は「炎上してドンガラだけだったので改造するにはかえって好都合だった」と証言しているが、一度炎上したクルマをベースにしていたとは驚きである。