マークII 【1980,1981,1982,1983,1984】

先進技術を惜しみなく投入した上級サルーン

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多様なボディが選べたマークII

 コロナの上級車種として、1968年9月に登場したマークIIは、1980年10月にフルモデルチェンジされた新型で第四世代に入った。本来は新型になる度にマークIII、マークIVとなるべき車名はマークIIのままであった。それはマークIIの名が、それだけで独立したブランドとなっていた証であった。ちなみに当初こそコロナ・マークIIが正式名称だったが、1976年の3代目モデルから“コロナ”のサブネームが外れ“マークII”という独立車種となっていた。

 1980年頃から、トヨタ流の生産合理化は一段と強化される。マークIIも基本的な部分のシャシー・コンポーネンツは兄弟車のチェイサーやクレスタなどと共用。3車はニュアンスの微妙に異なるボディ外板を与えることで、全く異なる車種として売られていた。ちなみに3車のうちクレスタのみは1980年4月に先行デビューを果たしており、マークII(そしてチェイサー)は、半年遅れで新世代に移行したことになる。クレスタは当時ブランニュー・ブランドだったため、認知度を高めるため取られた戦略だった。ボディタイプはクレスタの4ドアHTのみに対し、マークIIはセダンやワゴン(バン)もラインアップしていた。

快適性の向上が主要命題に

 同一メーカーが同じジャンルにほぼ同一の3モデルを持つなど、現在では過去の話しとなった。しかしモータリーゼーションがまだまだ上昇基調にあった当時は、モデルやバリエーションは豊富なほどよかった。マークII、チェイサー、クレスタの3車は、販売店系列が異なるだけでなく、巧みにイメージを分けていた。ユーザーもそれを支持した。言い方は悪いが、このクラスのクルマのオーナーは、もはやエンジンルームを眺めて悦に入るなどと言うことはなく、快適装備の多さと自動化されたインテリア、さらに快適な乗り心地にもっぱら心をうばわれていた。実用的なセダンの存在は、生活を豊かに演出する移動手段へと大きく変わろうとしていたのである。

 第四世代に入ったマークIIは、当時のトヨタ製乗用車としてはクラウンに次ぐ位置にあり、日本的なアッパーミドル・クラスを代表するクルマと位置付けられていた。車種構成は4ドアセダンと4ドアHT、そしてワゴン(バン)の3種となり、2ドアHTは消滅した。このモデルから販売の主力はセダンではなく完全に4ドアHTとなった。

マイコン制御エンジン新搭載

 装備されるエンジンは全面的な見直しが計られている。大別すると直列6気筒シリーズと、直列4気筒シリーズがあり、6気筒シリーズが主力だった。最大排気量は2759ccの5M-EU型で、12ビットのマイコンによる統合制御を行う日本初のTCCS機構を組み込んでいた。販売の中心となる1988ccの1G-EU型は、良好な燃費とシルキースムーズな回転&パワーフィールの実現を目ざして新開発された期待のユニットだった。4気筒シリーズにはパワフルなDOHC仕様の18R-GEII型もGT専用ユニットとして残されていたが、あくまで少数派だった。ちなみにGTのトランスミッションはマニュアル型5速のみの設定となり、リミテッド・スリップ・デファレンシャルもオプション装備されるなど、徹底したスポーツ志向が特徴となっていた。

 装備の違いで差別化されるセダン&HT系のモデルバリェーションは25種におよび、兄弟車であるチェイサーの18種を含めれば全部で43車種のワイドバリェーションとなる。これほどまでに拡大したモデルバリェーションだったが、その本質的な違いは価格の違いのみと考えてよく、ユーザーは自分の好みというよりも、財布の中身と相談しながら、車種決定をすることになった。
 リセール・バリューを考えたボディカラーの選定や車種選定が一般的になったのもこの頃からであった。クルマは、洗濯機や冷蔵庫などの家庭電化製品と同じ耐久消費財と化して、一定の年月を使用した後に、ユーザーが好むと好まざるとに関わらず、新型に入れ替えるというシステムが出来上がっていた。この変化は、クルマが膨大な資源としてリサイクルされる工業製品へと変貌したことをも意味していた。国産車に大きな変化の時代が訪れたのだ