ホンダS前史 【1958,1959,1960,1961,1962,1963】

Sの夜明け前。特振法と4輪車への挑戦

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夢の実現。4輪車開発スタート

 ホンダにとって、4輪車へのチャレンジ作となった初代Sシリーズが、名車と呼ぶに相応しい高い完成度を誇っていたのは、Sシリーズ開発前に何台かのプロトタイプを製作していたからだった。本田宗一郎にとって4輪車の開発・生産は、長年の夢。資金的にも技術的にも余裕が生まれたホンダは、1950年代後半、いよいよ4輪車開発へと舵を切る。

 1958年9月、埼玉県、白子の研究所内に第3研究課が設立される。第3研究課は4輪専門で、同年3月に入社したばかりの中村良夫をはじめ、総勢7名ほどのスタッフが配属された。宗一郎は、4輪車開発に当たり、「エンジンは4気筒、ボディサイズは軽自動車の枠内に収まること」をスタッフに命じたという。

当初は4シーターFFモデルを試作

 最初の試作車は「X170」と呼ばれる前輪駆動車だった。研究課設立前に既に基礎開発に取りかかっていたこともあり、10月にはエンジンとシャシーの設計図が完成。1959年2月には、走行テスト可能なモデルが完成した。まずは走れることを優先したため、ボディはシャシーの上に最低限のカバーとライトを装着しただけの姿だった。

 X170は、Sシリーズのようなスポーツモデルではなく、実用車を目指していた。広いキャビンと、ラゲッジ空間を確保するためメカニカルスペースをコンパクトに設計することが求められた。そのために選んだ駆動方式がフロントエンジン、フロントドライブのFFレイアウトだった。現在でもホンダ車の伝統となっている“マン・マキシマム、メカ・ミニマム”のMM思想は、X170が原点かもしれない。エンジンは空冷方式のV型4気筒OHC。最高速度100km/hを実現するため25ps前後の最高出力が目標数値となった。

 シャシーはプラットホーム型。サスペンションは前後ともウィッシュボーン式の4輪独立。ステアリングはラック&ピニオン式を採用する。FFレイアウトの鍵となるドライブシャフトのジョイント部は、等速ジョイントが入手困難だったため、シングルクロスジョイントが組み込まれた。
 X170はテスト走行で、過大なエンジン騒音、サスペンションを含めたシャシーの剛性不足、駆動系の不自然な挙動、クラッチの弱さが指摘される。だが基本的な素性はよく、1959年の春から夏にかけて約3000kmテスト走行を重ねた。テストには参考車両としてドイツ製のハンザ・ロイトLP400や、スバル360も併走したという。

最高速120km/h! スポーツモデルの胎動

 第3研究所のスタッフはX170のテストと並行して、もう1台のモデル開発に没頭する。「X190」と言う、軽自動車規格のスポーツモデルである。宗一郎からは、「2+2(大人2名と子供2名)レイアウトで120km/h以上のスピードが出せ、エンジンは空冷対向4気筒。駆動方式はフロントエンジン、リアドライブのFR。後輪サスペンションはリーフスプリング式のリジッドアクスル式とする」という方向性が提示されたという。

 計算の結果、最高速度120km/h達成には28~29psが必要と分かり、エンジンの出力目標は29psに設定された。1959年1月より具体的な設計がスタート、5月に設計図が完成する。
 空冷対向4気筒OHCエンジンのパワーは、乾式単版クラッチと4速トランスミッション(2〜4速はシンクロ付き)を経て、減速比約1.5のチェーン減速を行い、ゴム製カップリングで支えたプロペラシャフトでデフを駆動するシステム。ボディはセミモノコック形式でテスト1号車の外板はポリエステル製、2号車はオールスチール製だった。フロントサスペンションはリーフスプリングを横置きした独立タイプ、ブレーキは軽合金ドラムにデュオサーボ式のシューを配置していた。

 エンジンは9月に完成。シャシー組み立て完了は10月中旬。X190はすぐに実走テストを実施する。車重はポリエステル製ボディの1号車が500kg、スチール製の2号車は470kg。両車とも荒川テストコースで120km/hの最高速をマークし、0→50mph(80km/h)加速を18秒でクリアー。軽自動車として当時常識破りの非凡なパフォーマンスを実現する。

 X190は、軽自動車のスポーツモデルという新ジャンルを見事に開拓した。しかし、軽自動車規格のコンパクトなボディに2+2構成のキャビンを実現することは難しく、「狭い2+2ではなく、2シーターに割り切って少しでも居住性を改善すべき」という意見が開発スタッフから出る。X190は約4000kmのテストを実施して、数々の貴重なデータをもたらした。

4輪車進出に暗雲。特振法の衝撃

 宗一郎とスタッフがX170とX190の開発に邁進する中、ホンダの4輪車進出にブレーキを掛ける事態が起こる。1960年代初頭に「特定産業振興臨時特別措置法(特振法)」という、新しい法律の概要が明らかになったのだ。特振法は、自動車や石油化学、重電機など特別な6業種について、国際競争力を強化するために援助を与えるもので、既存メーカー保護のため新規参入を認めない内容だった。1965年3月に予定されていた貿易の完全自由化を前に、脆弱な国内産業の体力増強に躍起になっていた政府の対応策のひとつだった。この法案が国会で可決されとホンダの4輪進出は夢で終わってしまう。

 宗一郎はかねて、「我々メーカーの努力すべき点は、外国車よりも安価で性能の優秀な製品を生産することである。よい品が安く作られれば、拒まずとも外国車の輸入は途絶するだろう」と語っていた。すでにマン島TTレースへの挑戦を開始し、アメリカ・ホンダを設立して国際市場に打って出たホンダにとって、創意と工夫を凝らし、独自のモノ作りを実践すれば世界を恐れることはなかった。欧米の自動車産業は好ましいライバルでは合っても、脅威の対象ではなかったのである。

 宗一郎は、自ら通産省に乗り込み、特振法の問題点をアピールする。しかし相手にされなかった。そこで宗一郎は、「特振法が可決される前に、4輪車の生産実績を残す」方針を決断。より一層、4輪車の開発を急ぐ。ホンダが最初に送り出すのに最適なクルマとして、「スポーツカー」を明確に設定したのはこの時期だった。
 1961年4月に開催された第10回全国ホンダ会(販売店の総会)で宗一郎は、4輪車計画は近づきつつあると前置きしたうえで、「スピードは120km/hは確実で、アメリカ車並みの加速」と高性能ぶりをアピールする。宗一郎が公式に4輪車の計画を外部に表明したのは、この時がはじめてだった。

そして、Sシリーズが姿を現した!

 4輪車開発はX190を経て、AS250(後のS360)とAK250(同T360)に移行した。パワーユニットは、X190の空冷対向4気筒OHCではなく、水冷直列4気筒DOHCを新設計。排気量は356ccでAS250用は33ps/9000rpmの最高出力を誇った。クランクシャフトは2輪レーサー譲りの圧入組み立て式。DOHCレイアウトは国産4輪車初採用だった。

 AS250の足回りはフロントがウィッシュボーン式、リアはチェーンドライブ機構を内蔵したトレーリングアーム式。ボディはスチール製のアウターパネルとフレームシャシーで構成する別体構造。ボディパネルはフレームに20カ所以上でボルト止めされ高い剛性を実現した。スタイリングは宗一郎が造形に参画したスタイリッシュなオープン2シーター。軽自動車規格のため前後のオーバーハングは極端に短かった。

 AS250とAK250は、それぞれS360とT360のネーミングで1962年6月の第11回全国ホンダ会で初披露され、その後、10月の全日本自動車ショーに出品。大反響を得る。自動車ショーにはS360と並んで、小型車規格のS500も並んでいた。
 ホンダの4輪車開発は、高い技術力と宗一郎のアイデア、そして何より開発スタッフの熱意を背景に急ピッチで進捗する。ちなみに特振法は1963年10月に国会に提出されたものの、結局、廃案となった。