R380速度記録チャレンジ 【1965,1967】

レーシングプロトのパフォーマンス挑戦

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プロトタイプスポーツカーを作り、雪辱を果たせ!

 1964年開催の第2回日本グランプリにおいて、ポルシェ904カレラGTSに惨敗したプリンス自動車工業。プロトタイプスポーツカーの高性能ぶりを再認識したレース部隊は、次回のグランプリに向けて自らも同カテゴリー車を開発する計画を立てた。
 1964年6月に同社の設計担当の2人が渡欧し、参考車となるブラバムBT8を購入する。開発主担の櫻井眞一郎をはじめとするスタッフはこれを徹底的に研究。最終的にプリンス製プロトタイプスポーツカーの車体を鋼管スペースフレーム+アルミ合金製ボディで製作、サスペンションを前ダブルウィッシュボーン/後ダブルトレーリング(アッパーIアーム+ロア逆Aアーム)、エンジンを2L直列6気筒DOHCで仕立てることを決定した。

エンジンは日本初の4バルブDOHC24V

 このうちボディに関してはクレイモデルを製作し、東京大学の航空研究所で風洞実験を重ねてスタイリングを決定。実際のアルミパネルの成型および溶接は、立川飛行機出身の熟練者が腕をふるった。一方、エンジンについては同社の榊原雄二氏が設計を手がけ、4バルブDOHCのヘッド機構にアルミ合金製のシリンダーヘッド、鋳鉄製のディープスカート式シリンダーブロック、7ベアリング化したクランクシャフト、ギアトレイン式のカムシャフト駆動、ドライサンプ式のオイル潤滑、フルトランジスター式の点火装置などを採用したGR8型ユニット(1996cc直6DOHC24V)を完成させる。燃料供給装置にはウェーバー42DCOEキャブレターを3連装し、最高出力は200ps以上を発生した。組み合わせるトランスミッションはヒューランド製のHD5(5速MT)で、クラッチにはボーグ&ベックの多板式をセット。また、ブレーキにはガーリングタイプの4輪ディスクを、タイヤにはダンロップのR7を装着した。

 1965年6月末に完成したプリンス製プロトタイプスポーツカーは「R380」と名づけられ、翌月から村山テストコースで試験走行を開始して各部の完成度を高めていく。本来であれば日本グランプリの舞台へ、となるはずだったが、1965年に開催を予定していた第3回大会は延期となっていた。このままでは世間にR380のハイパフォーマンスを披露できない--熟慮の結果、プリンス自工のスタッフは、スピード記録に挑戦するという路線変更を行う。

R380でのチャレンジは大きな成果をあげる

 1965年10月、プリンス自工は茨城県の谷田部町にある自動車高速試験場においてR380のスピード記録会を実施する。挑戦項目はSS(スタンディングスタート)50km/50マイル/100km/100マイル/200km/200マイル/1時間の7種目。この記録会では、SS50km/100マイル/200km/1時間で国際公認記録を上回る速度を達成する。しかし、200マイル目前で左リアタイヤがバーストし、R380は大破してしまった。

 ここであきらめないのが、プリンス自工の開発陣の真骨頂。8日後の14日に、再びスピード記録にチャレンジした。1回目を凌駕するペースで周回を重ねるR380だったが、最終的にはミッションからのオイル漏れにより、記録会を中止する。この2回の記録会での成績は、4種目で国際公認記録を上回り、また6種目で国内公認記録を樹立した。
 プリンス自工の技術力の高さと速さを数値で証明したR380は、「時速238.15km(SS50㎞の平均速度)スピード記録保持車」の看板を掲げて、1965年開催の第12回東京モーターショーで華々しくワールドプレミアを飾った。

 さらに1967年10月になると、合併によって“ニッサン”の冠に変わった進化版のR380A-IIがスピード記録に挑戦する。この回では各項目の平均速度が250km/hの壁を破り、結果的に7種目の国際記録を成し遂げたのである。