三菱500 【1960,1961,1962】

優れた技術と快適性を備えた小型実用車

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国民車構想を小型車で具現化

 三菱自動車初の独自開発による小型乗用車である三菱500は、1960年4月に発売された。車名の500は、エンジンの排気量を示していた。
 1960年代初頭の日本社会は、ようやく第二次世界大戦の敗戦による混乱から抜け出し、人々の生活にもある程度の余裕が生まれていた。大卒の初任給は平均して1万円から1万2000円程度、神武景気などと言われた朝鮮戦争後の好景気により、製造業を中心として日本経済は大きく発展することになった。三菱500は、1955年5月に通商産業省(現在の経済産業省)から布告された国民車育成要綱案に基づいて、三菱自動車の前身である新三菱重工業が独自に開発したモデルであった。

 通商産業省が発表した国民車育成要綱案に基づく「国民車」とは、最高速度100km/h以上が可能であること。乗車定員は大人4人であること。60km/hで走行した時の燃費は1リッター当たり30kmを走れること。エンジン排気量はおおむね350cc~500cc程度であること。重大な修理なしに10万km以上を走れること。価格は月産2000台として販売価格が25万円前後であること……。というものであった。政府はこうした条件を備えた小型車を具体化すれば、相応の奨励金を出すと言う条項も付けた。とはいえ様々な条件は当時の日本の自動車技術ではおよそ実現不可能なものが多かった。だが、厳しい技術的な難題に果敢にチャレンジしようとする自動車メーカーは少なくはなかった。そのひとつが新三菱重工であり、後にスバル360を生み出す富士重工であった。

500ccエンジンとRRの駆動レイアウト

 新三菱重工は、「国民車育成要綱案」が公表された直後から、小型車の開発を始める。新三菱重工は、総合企業体であった三菱が戦後の財閥解体により3社に分割された中のひとつ。神戸市に本社を置くメーカーで1950年1月に中日本重工業の名で再出発した。1952年5月には新三菱重工業に社名変更している。バスボディやトラック用ディーゼルエンジン、またGHQ(連合軍総司令部)の要請による軍用車両の整備や修理などで、自動車生産とメインテナンスに対するノウハウを多く学んだ。1950年代初めのころは、トヨタや日産の小型乗用車のボディ製作も請け負っていた。また、今日の自衛隊の始まりとなる警察予備隊が使用するアメリカ軍規格のウィリスJeepやアメリカ製小型車のヘンリーJなどのノックダウン生産(部品を輸入して完成車として組み立てる手法)も行っていた。

 三菱500は、1959年の6回全日本自動車ショウでプロトタイプを発表、翌1960年4月から発売された。しかし、実際に売り出された三菱500は、通商産業省が布告した「国民車育成要綱案」の諸条件からはかなり外れたモデルになっていた。先進的なフルモノコック構造のボディの後部に搭載され後2輪を駆動するエンジンは、空冷4サイクルOHVの並列2気筒で排気量は493cc(NA19A型、出力21ps/5000rpm)となっており、トランスミッションはフロアシフトの3速マニュアルのみの設定となっていた。

小型車ジャンル最小を狙い市場に

 ボディサイズは全長3140mm、全幅1390mm、全高1380mm、ホイールベース2065mmで、乗車定員は4名だったが、軽自動車の規格には収まらなかった。販売価格は39万円。おそらく、当時の日本の技術的なレベルからすれば最も斬新かつ合理的な設計だったが、同時に限界でもあった。1958年3月に42万5000円で発売されていた軽自動車のスバル360が爆発的な人気を集めていたことから、あえて軽自動車という同じ土俵ではなく、ひとクラス上の最小の小型車というジャンルへ切り替えたとも考えられる。いずれにしても三菱500は最初の1年間で7866台を販売、まずまずの成功を収めた。

 デビュー当時の三菱500のカタログを開いてみると、まず、シンプルなスタイルを紹介するキャッチコピーが目に飛び込んでくる。そして、三菱500の特徴を記したポイントが5つ明記されている。「39万円で最も買い易い車です」「維持費の安い経済的な車です」「国道の真中を走れる高速車です」「誰でも手軽に運転できる車です」「ゆったりとして乗り心地の良い車です」と書かれている。市販開始は1960年の4月。その当時、39万円の価格は実際にリーズナブルなもので、軽自動車以外で初めて40万円を切ったプライスだった(のちにプライスダウンを実施)。そのほか項目に従って見ていくと、三菱500は、30km/Lの燃費性能、90km/hの最高速度を誇り、RRレイアウトによる優れたパッケージングと独立懸架のサスペンションを持っていた。カタログの5つの項目のとおり、高い実力の持ち主だった。

上級仕様のスーパーデラックスを発売

 三菱は拡販を目指して、三菱500の豪華版を企画する。1961年8月に登場したスーパーデラックスでは、エンジンの排気量を594ccに拡大(NE35A型、出力25ps/4800rpm)し、乗車定員を5名に増やした。その他、内外装デザインの変更やサスペンション改良、加速性能を向上させ、走行安定性を高めるなどの改良が施された。1962年11月にはマカオ・グランプリレースにスーパーデラックス4台が出場、750cc以下のAクラスで1位~4位までを独占する快挙を成し遂げる。

 しかし、価格的には十分安価であったとは言うものの、性能的に上位にあった日産ブルーバードやトヨタ コロナ、あるいはトヨタ パブリカなどに比べると中途半端な存在であり、販売台数は1963年4月まででも5400台と低迷した。そこで、販売不振の打開策としてマイナーチェンジを施し、イメージを一新したモデルが1962年6月に登場する。これがコルト600で、三菱のブランドとしては、初めてコルト(Colt=英語で若馬)の名を持ったモデルであった。

ビッグマイチェンでコルト600に

 コルト600は、後部に置かれる並列2気筒エンジンやトレーリングアーム式の前後輪サスペンションなど、基本的なメカニズムは旧型の三菱500スーパーデラックスのままとし、ボディースタイルを全面的に刷新したクルマだった。フロントのスタイルはフラットデッキと横長のダミーグリルを持つ近代的なものとなり、リアスタイルも縦長の大型テールライトと小さなテールフィンが付けられスタイリッシュなものとされた。トランクスペースも拡大され、インテリアではシートを改良。シフトレバーはコラムシフト(シフトパターンは縦H型)となってファミリーカーとしての感覚を盛り込んだものとなった。

 だが度重なるイメージチェンジも、三菱コルトの販売台数拡大にはあまり貢献することはなかった。その大きな要因は、三菱500の販売時期が遅すぎたことにある。1960年4月に三菱500が発売された時には、スバル360、マツダR360などの軽自動車、日野ルノー、日産ブルーバード、トヨタ コロナなどの中間排気量のジャンルに属するモデルが数多く登場しており、後発の三菱500が入り込む余地は残されていなかった。先手必勝はどこの世界でも共通であるようだ。