S600 【1964,1965,1966】

世界を驚かせた初代Sシリーズの充実版

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リッター当たり出力94ps! レーシーなエンジンが魅力

 初代Sシリーズは、積極的な改良によって完成度を高めていく。S600は、 S500発売から3ヶ月後の1964年1月に発表された。販売は3月にスタートする。
 S600は、ネーミングどおりエンジン排気量を拡大した進化バージョンだった。水冷直列4気筒DOHCユニットは、S500の531ccから606ccになり57ps/8500rpm、5.2kg・m/5500rpmを発生。S500比で最高出力は13ps、最大トルクは0.6kg・mのアップを達成した。リッター当たり出力は94psと、S500(81ps)、S800(88ps)を凌ぐ。S600のパワーユニットはS500より全域パワフルで、S800以上にシャープなレスポンスの持ち主。初代Sシリーズの中で最もレーシーなエンジンとして評価が高い。トップスピードは145km/hをマーク。S600のパフォーマンスはMGミジェットやトライアンフ・スピットファイアなど欧州製1.3リッター級スポーツカーに匹敵した。

 スタイリングは、それまで一直線だったフロントバンパーの中央が下げられ、同時にラジエターグリルを拡大する。ただし初期の生産モデルはS500と同じバンパーとグリルを装着していた(シャシーナンバー10126までの126台といわれる)。ヘッドランプは当初、S500と同様に透明カバーを装着していたが、その後省かれた。内装はS500と共通。ステアリングは本木製の3本スポーク形状で、シートはビニールレザー張りのノンリクライニング式である。S600の価格は、S500より6万円高い50万9000円だった。

狭山工場で一貫生産。バリエーションが拡大

 S600は、当初エンジンを埼玉製作所で生産、アッセンブリーを浜松工場で行っていた。1964年11月に狭山新工場が完成すると生産体制を一新。エンジン生産とアッセンブリーを狭山工場に一元化し、生産効率を高める。
 生産の一元化はバリエーション拡大をもたらした。1965年3月にファストバック形状のクーペを追加。同時に従来はオプションだった装備を標準化したラグジュアリー仕様のSMグレードを発売する。SMグレードは、ヒーター、ラジオ、バックランプ、サブマフラーを標準化。メタリック仕様の外装色が施された。価格は標準モデル比5万円高の56万3000円だった。

 S600はオプションアイテムも充実する。トランクキャリア、ウィンドウウォッシャー、トノカバー、ラジエターグリルシャッター、ハードトップなどが新設定され、多様なユーザーニーズに対応する。

世界に衝撃を与えた高性能。モータースポーツを席巻

 初代Sシリーズは、S600からモータースポーツ・シーンに積極参戦した。1964年5月に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリ(GT-Ⅰレース)では上位を独占。ウィナーは後にホンダF1をドライブするロニー・バックナム選手。2位以下も北野元選手、島崎貞夫選手、漆山伍郎選手のS600勢が続いた。S600はエントリーした11台がすべて完走。バックナム選手のラップタイムは2分58秒7をマークした。マシンはキャブレターを高性能仕様に交換し、ダンロップR6タイヤを装着した以外は基本的にノーマル状態だった。

 海外でもS600は速さを証明する。1964年9月のニュルブルクリンク500kmレースで、デニス・ハルム選手が見事にクラス優勝を飾る。この勝利は欧州のモータースポーツ・シーンでの日本車初優勝だった。
 S600は、サーキットレースはもとより、小規模なジムカーナ・イベントでも持ち前のハイパフォーマンスを武器に大活躍。幾多の勝利をものにする。ちなみにホンダはS600をはじめ、初代Sシリーズによるモータースポーツ活動を、ごく少数の例外を除きプライベートチームに任せる方針を貫いた。これはモータースポーツを、クルマを楽しむ文化として定着させる見識だった。日本では初代Sシリーズでモータースポーツに初挑戦し、プロドライバーや名チューナーに育った人物が珍しくない。

 S600から海外への輸出も本格化する。当初は欧州への輸出が開始され、その後北米にも輸出された。S600は、欧米のメディアでも注目の存在だった。アメリカの「ロード・アンド・トラック」誌は、「S600は元気よく走り、運転することが大変に楽しい。ハンドリングは同じ価格クラスのクルマより、もっと高価なロータス・エランを連想させる。S600は道路にぴたりと食い付きながら走り、すっかり安心できる。ホンダのスタッフはアメリカの若い自動車好きの心を掴むクルマを作り上げた」と絶賛した。S600は、欧米のメディアが走りのよさを認めた初の日本車、まさに世界中が愛したワールドスポーツだった。

ビジネスカーとしても提案。S600クーペの先見性

 S600は、1965年3月に新ボディタイプのクーペを追加する。1960年代はスポーツカーに快適性が求められはじめた時代。従来はオープン2シーターが一般的だったが、耐候性に優れたクローズドボディのGTクーペにも注目が集まっていた。オープンとクーペの2種のボディをラインアップするのはジャガーEタイプや、MG Bをはじめ一般的になりはじめていた。

 ホンダが初代Sシリーズにクーペを設定したのは、国際的なスポーツカーニーズを敏感に察知しての対応だった。とはいえ、本格モータリーゼーション到来前の日本ではスポーツカーはまだまだ高嶺の花。そこでホンダはクーペの導入にあたって、“ビジネスカー”という新概念を提案した。クーペのラゲッジスペースにアタッシュケースを積み、軽快で俊敏な仕事の足として活用する使用パターンである。クーペなら遊びだけでなく、ビジネスマンズエクスプレスとしても最適であると語りかけたのだ。スポーツカーの敷居が欧米以上に高かった日本にあって、ビジネスカーという響きは新鮮に響いた。