ダイハツ・エンジン01 【1907〜1967】
戦後は三輪自動車用エンジンから出発
ダイハツ工業の前身である発動機製造株式会社は、大阪財界の有志の出資によって1907年3月に発足する。
最初の製品は気筒径165mm、行程260mmの単気筒6馬力吸入ガス発動機のE2型で、会社創立からわずか9カ月後に完成させた。翌1908年の10月になると、発電用100馬力吸入ガス機関と舶用立型吸入ガス発動機を製造する。さらに1917年7月には、850馬力を誇る舶用蒸気機関を開発した。
クルマのエンジンを本格的に手掛けるようになったのは、1910年代の後半からである。1919年3月には軍用制式自動貨車用エンジンを製作。さらに1920年代に入るとディーゼルエンジンの開発に着手し、1922年5月には横型超ディーゼル発動機の製作を開始した。ガソリンエンジンに関しても研究を重ね、1930年4月には空冷4サイクル500ccガソリンエンジンを完成させる。このエンジンは後に、同社の三輪自動車の第1号モデルとなるHA型に搭載された。
HA型の開発で自信を深めた発動機製造は、しだいに三輪トラックの開発に力を注ぐようになる。1931年5月には改良版のツバサ号HB型を、そして1933年6月には4サイクルの750ccエンジンを搭載するダイハツ号HF型を製作した。これらのモデルは商人や農家などの運搬手段として人気を集めるようになる。さらに1937年には空冷2気筒1200ccエンジンを搭載する四輪駆動の試作車を、加えて空冷2気筒732ccエンジンを積むFA型四輪トラックを完成させた。
このまま自動車の開発に驀進するかに見えた発動機製造。しかし、そうは問屋が卸さなかった。戦争の拡大に伴う軍需製品の生産に追われ、自動車開発は縮小せざるを得なくなったのである。さらに国家総動員法公布後は完全な軍需工場に体制が変更され、エンジンに関しては舟艇用の高速6気筒ディーゼルや牽引車用の60馬力水冷式ディーゼルなどを製作することになった。
終戦後、乏しい物資で生活製品を作りながら工場の再建を図っていった発動機製造は、1947年ごろから再び三輪トラックの製造を開始するようになる。1949年には1000cc級のV型2気筒空冷4サイクルエンジンを搭載するSSH型を発売。1954年には1431ccV型2気筒空冷4サイクルを積むSX/SSX型をリリースした。
三輪トラックに力を入れる一方、1951年10月には三輪乗用車の“BEE”も発売する。エンジンは強制空冷式の804cc水平対向2気筒OHVで、18psの最高出力を発生した。ちなみにBEEの発売の2カ月後には、社名をダイハツ工業に変更している。
1957年8月になると、ダイハツ工業は自社初の超人気商品となる三輪トラックをデビューさせる。「修理の入らない、すぐれた性能!」のキャッチフレーズを冠したDKA型ミゼットだ。エンジンは249cc空冷2気筒2サイクル(8ps/1.8kg-m)で、最高速度は60km/hに達した。ミゼットは大村昆さんを起用した広告展開でも功を奏し、空前の“ミゼット・ブーム”を巻き起こす。その勢いに乗って、ダイハツ工業は新製品を精力的に開発。1958年10月に初の量産四輪車となるトラックのFPO型ベスタ(エンジンは1478cc・V型2気筒水冷4サイクルOHV)を、1960年10月には軽四輪トラックのハイゼット(エンジンは356cc・直列2気筒空冷2サイクル)をリリースした。
商用車生産で技術的なノウハウを蓄積したダイハツ工業は、1960年代に入ると念願の小型乗用車の開発を本格化し始める。1961年10月の第8回全日本自動車ショーでは試作モデルを発表。1961年12月にはイタリアのビニアーレ社とデザイン導入の契約を交わし、1963年5月には797cc直4OHVエンジンを積む小型商用車のコンパーノ・バンを、6月には乗用車のコンパーノ・ワゴンを発売した。
1964年2月になると、待望のセダンモデルとなるベルリーナ800がデビューする。エンジンはFC型797cc直4OHVユニット(41ps/6.5kg-m)で、最高速度は110km/hに達した。さらに1965年3月には、FE型958cc直4OHVエンジン(65ps/7.8kg-m)を搭載するコンパーノ・スパイダーもデビューさせた。
1966年に入ると、ダイハツはさらに積極姿勢を見せるようになる。まず5月にはディーゼル機関の製造販売部門を分離し、ダイハツディーゼル株式会社を設立。11月にはZM型356cc直列2気筒水冷2サイクルエンジン(23ps/3.5kg-m)を採用する新しい軽自動車のフェローを発売した。
エンジンの開発を急ピッチで進め、車種ラインアップも強化するダイハツ工業。その戦略は1967年11月にトヨタ自動車工業と業務提携することで、さらなる躍進を遂げることになる--。