クラウン・ハードトップ 【1968,1969,1970,1971】

日本初、大人のための2ドアスペシャルティ

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“革新のハードトップ”の誕生

 日本を代表する上級サルーン、トヨタ・クラウンは“革新の高級車”である。ユーザーニーズをいち早く掴み、それを高い技術力で具現化。魅力を鮮明にすることで憧れを醸成し、トヨタのフラッグシップの位置を揺るぎないものに高めてきたからだ。そのひとつの象徴が、1968年9月にラインアップに加わったハードトップモデルだった。

 クラウン・ハードトップは、1967年9月に登場した3代目のパーソナルモデルとして登場する。ネーミングどおり。クラウンの2ドアハードトップ・バージョンだった。“ハードトップ(=固い屋根)”とは、本来オープンカーの“ソフトトップ”と対をなす言葉。オープンカーに装着する脱着可能な屋根が本来の意味だが、すでにこの当時は、流麗なスタイリングを持つスペシャルモデル、なかでもセンターピラーのない美しいクーペに与えられるネーミングとして定着しはじめていた。アメリカ車を中心にセダン・ベースのスタイリッシュなハードトップが数多く作られ、高い人気を獲得。ボディの1ジャンルとして認めれていたからだ。日本では1965年7月にトヨタがコロナにハードトップを設定したのが最初。クラウン・ハードトップはコロナ・マークIIハードトップと同時期に登場した第2世代のハードトップだった。

2グレード構成。上級車はツインキャブ仕様

 クラウン・ハードトップはセダンをベースに全長を55mm短縮。伸びやかな2ドアクーペフォルムを構築する。ヘッドランプはセダンの丸型4灯から専用角型形状にリファイン。ラインアップはSLと標準仕様の2グレード構成で、SLはツインキャブ仕様の2ℓ直6OHCユニット(125ps)を、標準仕様はシングルキャブ仕様の2ℓ直6OHCユニット(105ps)を搭載する。トランスミッションは両グレードとも4速MTと3速ATから選べた。

 静粛性の実現に有利なペリメーターフレーム構造や、フロントがダブルウィッシュボーン式、リアが4リンク式の足回りなど、メカニズムはセダン系と共通。ハードトップはスポーティな性格よりも、クラウン本来の持ち味である快適性を重視していた。装備は充実しており、上級版のSLでは、軽合金風の専用ホイール、ディスクブレーキ、タコメーター、ウッド調3本スポークステアリング、パワ—ウィンドウを標準装備。シートは豪華なデザインの大型形状で、前席はサポート性に優れたセパレートタイプが奢られた。

伸びゆく日本を象徴した待望の“特別なクルマ”

 全長×全幅×全高4610×1690×1420mmの大柄なボディサイズを持つクラウン・ハードトップの存在感は別格のものがあり、デビュー後、瞬く間に富裕層から熱い視線を浴びた。当時、日本はモータリーゼーションの発展期。目覚ましい高度経済成長に呼応して国民の所得水準が上昇。クルマは夢の存在ではなくなっていた。1966年にはトヨタからカローラ、日産からはサニーが登場。ともに大ヒットを飛ばし、“大衆車”という言葉が誕生する。それだけではない。より豪華で、“特別なクルマ”を求める富裕層も確実に増えていた。「新たな富裕層は、フォーマル・イメージの強いセダンでは物足りないはず。欧米の上級車のようなパーソナル感覚が強いクルマを待ち望んでいる潜在層は多いに違いない」。そう分析したトヨタの戦略は見事だった。“男ざかりにふさわしい”というキャッチコピーを掲げたハードトップは、富裕層から圧倒的な人気を獲得する。

初代クラウンは日本初の本格乗用車として誕生

 クラウン・ハードトップが高い人気を獲得した背景には、クラウンが、日本に徹底的にこだわった高級車として誕生した、という歴史も影響している。
 1950年代初頭、トラック派生の“間に合わせ乗用車”ではなく、“本格乗用車”を求めるユーザーの動きにライバル各社は、欧米メーカーの乗用車をノックダウン生産する手法で対応した。日産は英国のオースチン、いすゞは同じく英国のヒルマン、日野自動車はフランスのルノーと技術提携。ノックダウンの本格準備に取りかかる。しかしトヨタは、純国産で行く道を選んだ。欧米のクルマを凌駕する本格乗用車を自らの手で開発することに、あくまでこだわったのだ。

 1952年1月、新型乗用車RS型の開発が正式にスタートする。開発責任者は、当時の車体工場次長だった中村健也が抜擢された。当初掲げられた開発目標は6項目。
1:アメリカンスタイルとして、明るく軽快なイメージに仕上げること。
2:ボディサイズは小型車枠いっぱいとして貧弱に見えないこと。
3:乗り心地がよく、運動性能の優れたクルマとすること。
4:タクシー用としても最適な格安のクルマとすること。
5:丈夫で悪路に十分耐えるクルマとすること。
6:最高速度100km/hとすること。
タフさと乗用車としての快適性、そして当時多くの人々から支持されていたアメリカンスタイルを持ったクルマの開発がはじまったのである。

 中村健也は、販売店やタクシー会社を徹底リサーチした。その結果、乗用車専用シャシーを採用するとともに、乗車定員を6名とすること。さらにリアドアを、乗降性を重視して後ろヒンジ(つまり観音開き)にすることを次々に決めていく。フロント・サスペンションはコイルスプリングを採用したダブルウイッシュボーン式の独立懸架とした。耐久性に対する配慮から周囲にはリジッドを推す声が高かったというが、中村は、なにより“快適性と運動性”を重視して独立懸架にこだわった。エンジンは1.5LのR型(48ps)が選ばれた。 

 RS型は、1955年にデビューした。ネーミングは「クラウン」。それは日本の使用状況と道路事情を深く吟味した、初の本格乗用車の誕生を意味していた。堂々としたスタイリングと、良好な乗り心地、そしてタフなメカニズムは多くのユーザーに好評を持って迎えられた。12月には装備を充実したDXグレードを追加し幅広いニーズに対応。RS型初代クラウンは7年以上の長きに渡って生産される超ヒット作となった。日本の本格乗用車の歴史は、クラウンによって開拓されたのである。

オーナードライバーに向けた“白いクラウン”

 初代に続き2代目も大ヒットを飛ばしたクラウンは、3代目で新たな個性を訴求する。ハードトップの1年前にデビューしたセダンで、パーソナル指向のオーナーカー層の掘り起こしに積極的に取り組んだのだ。その象徴が“白いクラウン”というキャッチコピーだった。当時、クラウンなどの高級車は法人や営業ユースが主体。ボディカラーはフォーマルな黒やグレーが定番だった。その常識打破にクラウンは挑戦したのである。

 3代目は色の訴求だけでなく、オーナーデラックスとオーナースペシャルという、オーナードライバー向けの専用グレードを設定。オーナーデラックスは2ℓ直6OHCエンジン(100〜105ps)を、オーナースペシャルは2ℓ直4OHV(93ps)を積み。自らがステアリングを握るユーザーに向け装備を吟味した。価格はオーナーデラックスで88万円に設定。フォーマル指向のデラックスやスーパーデラックスと比較して数段リーズナブルなこともあって、新たな人気モデルに成長する。高級サルーンをプライベートカーとして楽しむのが一般的になったのは3代目クラウンの功績。その流れの先にハードトップがあった。

後期型はバリエーションが充実

 クラウン・ハードトップは1969年4月に、全車に3点式シートベルトと運転席ヘッドレストなど安全装備の充実化が図られ、同年8月にはマイナーチェンジを実施。フロントグリル、ボンネット、リアコンビネーションランプの意匠を変更。同時にエンジンをリファインした。

 グレード展開は、SLと標準仕様の2グレード構成から、新たにスーパーデラックスが追加された。スーパーデラックスはSL用より最高出力がやや低い115ps仕様のツインキャブ仕様2ℓ直6OHCユニットを搭載。トランスミッションは4速MTと3速ATが選べた。秒針付き時計や軽合金風ホイールなど、装備はSLとほぼ共通だったが、特徴はパワーステアリングを標準装備していたこと。当時軽い操舵力で操作できるパワーステアリングは先進の快適アイテム。国産車では一部のモデルを除いて設定がなかった。それをいち早く標準装備した点にハードトップの先進性が示されていた。

 ハードトップはセダンと比較して、室内スペースは長さで60mm、幅で25mm、高さで15mmほどタイトだった。2ドアということもあり、あくまで前席優先。生粋の高級オーナーカーといえた。そのクラウン・ハードトップの成功は、日本が豊かな時代に突入したことを証明していた。美しいスタイリングだけでなく、新たな時代を開拓したという意味でも名車の1台である。