三菱WRCの歴史2 【1973,1974,1975,1976】

初代ランサーがもたらした第一次黄金時代

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戦闘力の高いマシン、初代ランサーの誕生

 1973年から、“ラリーの三菱”の第1次黄金時代がスタートする。その立役者は、2月にデビューしたスポーティなコンパクトモデル、初代ランサー(A73型)である。ランサーはギャラン譲りの高性能エンジンを軽量ボディに搭載し、優れた走りをアピールした名車。とくに高性能バージョンの1600GSRは、当初からラリーへの参戦を意識した傑作モデルだった。

 ランサーは1973年10月の、第8回サザンクロスラリーに5台体制で参戦する。結果は見事なものだった。総合優勝を飾るとともに、4位までを独占する見事なデビューウィンをやってのけたのである。ランサーの戦闘力の高さに自信を持った三菱は、活躍の場をオーストラリアだけでなく、アフリカへと拡げる。世界で最も過酷な「イーストアフリカ・サファリラリー」(以下サファリラリー)への挑戦を決意したのだ。

 サファリラリーは当時FIA(国際自動車連盟)公認の最大イベントで、5日間/約5000kmで競われ、全コースにわたって指示速度も高かった。しかも天候によって路面状況が激変するため、別名「カーブレーカーラリー」と呼ばれるほど、完走率が非常に低いことでも有名だった。サファリラリーは、日産の挑戦で日本でも知名度が高かった。三菱は日産以上の活躍を示すことで、速さと優れた性能をアピールしようとしたのだ。

サファリ初挑戦・初優勝。強い三菱のスタート

 ランサーの初挑戦となった1974年は、サファリ史上屈指の過酷なラリーとなった。豪雨と洪水で全コースが泥沼と化し、強豪チームが相次いで脱落する。しかしランサーの強さは本物だった。現地人ドライバー、ジョギンダ・シン選手に託されたランサーは、抜群の信頼性を示し初出場ながら総合優勝を勝ち取ったのである。シン選手はラリー後「サファリに勝つには、なによりマシンの総合性能とバランスに加えて、高い信頼性が必要。ランサーだからこの勝利をものにすることができた。優勝は私の一生の思い出になり、ランサーは一生の友になるだろう」と語り、ランサーの高いポテンシャルを絶賛した。

 ランサーは日本からのエントリーも増えた第9回サザンクロスラリーでもアンドリュー・コーワン選手のドライブで優勝を飾り、ランチア、プジョー、フォードなどと並ぶ世界トップ級の性能を誇るラリーマシンとして世界的に認知されるようになった。
 1975年のサファリラリーには、サザンクロス3連覇のコーワン選手を投入。クラス優勝を飾り、総合でも4、8,10位と着実に入賞を果たした。同年の第10回サザンクロスラリーではコーラン選手が4連覇を達成。2、4,8位にもランサーが食い込み“ランサー強し!”の印象を内外に強くアピールする。

1976年、篠塚選手も三菱の大活躍に貢献

 1976年はランサー、そして三菱チームがひとつの頂点を迎える。4月のサファリラリーには、プジョー、日産、ランチア、フォード、オペルなどの強豪ファクトリーチームが勢揃い。三菱チームは4台のランサーを送り込む。ちなみにその1台はサファリラリー初挑戦となる篠塚健次郎選手に託された。

 ラリーは開始早々から激しい豪雨に見舞われ、ランチア期待のワルデガルド選手、ムナーリ選手が第1レグで早々に脱落。プジョーのマキネン選手、ミッコラ選手もリタイアする。コース状況は劣悪で、ラリースタートから400km時点で33号車の篠塚選手以降のマシンはすべてリタイアという異例の状況となった。5000kmを走り抜きゴールにまで辿り着いたのは出場全64台中わずかに17台にすぎなかった。この中、ランサーはプライベーターを含めた全11台中5台が見事に完走。シン選手が総合優勝を飾っただけでなく、2、3、6位にもランサーが食い込みマニュファクチャラーズチーム優勝を獲得した。1600ccのランサーがサファリを完全制覇したというニュースは、1976年のモータースポーツ界のビッグニュースとなった。また初出場ながら見事に完走、6位に入賞した篠塚選手には、最高殊勲賞にあたる「ゼルダ・ヒューグ・メモリアルトロフィー」が贈られた。この賞は例年優勝ドライバーに与えられるものだが、過酷な状況のなか初出場・初入賞を飾った篠塚選手のドライビングを高く評価してのものだった。

 ランサーはサファリラリーに続き、晴天に恵まれパワーに勝る大排気量車に有利な状況となった第11回サザンクロスラリーでもコーワン選手が優勝。まさに王者と呼ぶにふさわしい偉業を成し遂げた。1973年のサザンクロスラリーの優勝からスタートし、サファリラリーでの2回の優勝と通算して、国際ラリーでの6回もの優勝は、ランサーの総合性能の高さとともに、三菱がラリーを通じて追求してきた“優れた速いクルマ作り”が結実したことの、なによりの証明だった。