日産デザイン03 【1959,1960,1961,1962,1963】

中・小型乗用車とスポーツカーで日産オリジナルを追求

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新しい中型乗用車“タテ目のセド”の登場

 対日講和条約の批准によって日本の独立が承認された1952年、日産自動車は最新の自動車製造を学ぶために英国のオースチン社と技術提携を結んでA40サマーセット/A50ゲンブリッジをノックダウン生産し、後に完全国産化するなどして自社の技術力を向上させていく。これと並行して、開発陣は独自デザインの中型乗用車の企画立案も推し進め、1960年3月には同社初のオリジナル中型乗用車である「セドリック」を市場に放った。

 童話『小公子』の主人公の名に由来し、明朗さや美しさをシンボライズしたセドリックは、オースチン車の国産化から学んだ製造技術をベースとしながら、スタイリングにおいて当時の日本市場で人気が高かったアメリカ車のトレンドを巧みに取り入れる。基本骨格は一体構造車体のユニボディ(モノコックボディ)を導入。そのうえでサイドまで回り込むラップラウンドウィンドウや縦型4灯式の個性的なヘッドランプ、存在感たっぷりの大型グリル、リアエンドを特徴づけるテールフィン、ルーフ部を塗り分けたツートンのボディカラー(デラックス)などを採用し、新世代の純国産中型乗用車に仕立てた。

 独特のヘッドランプ形状から“タテ目のセド”の愛称がついた初代セドリックは、アメリカナイズされた華やかなルックスやG型1488cc直4OHVエンジンによる卓越した走りなどが市場で高く評価され、瞬く間にクラウンと並ぶ日本の中型乗用車のベンチマークに成長していくこととなった。

より本格的なスポーツカーの開発

 初代モデルではあくまで感覚的なスポーツカーだったフェアレディ。しかし、日産の開発陣はこのままでは満足しなかった。世界的に人気の高い英国製スポーツカーに匹敵する本格的なハイパフォーマンスモデルを造りたい——。その積極姿勢は、1961年10月にショーデビューし、翌1962年10月から市販に移されたSP310型「フェアレディ1500」とその輸出仕様であるSPL310型「ダットサン1500」に結実した。

 フェアレディ1500の搭載エンジンは、セドリック用のG型ユニットを流用する。組み合わせるミッションには、2〜4速シンクロタイプを採用。フレームはブルーバード用をベースに低床化を施し、同時にミッション後方にX型クロスメンバーを加えて強化を図った。肝心のスタイリングに関しては、オールスチールのオープンボディを基本に英国製スポーツカーに範をとって独自解釈したロードスターフォルムを構築。伸びやかなノーズにスポーティなフロントマスク、流れるようなサイドライン、スラントさせたリアエンドに縦配列の丸形リアランプなどを採用して先進のエクステリアに仕立てた。

小型乗用車の内外装をアップデート

 独特なリアランプの形状から“柿の種”というユニークなニックネームが付いた1959年7月発表のダットサン「ブルーバード」は、デビュー以後もその人気を維持するための様々な改良を行っていく。
 まず1959年10月には、リアシート幅を拡大して3名掛け(乗車定員5名)仕様に変更。1960年7月になると、可倒式リアシートを配した5ドアの「エステートワゴン」をラインアップに加える。同年10月にはマイナーチェンジを敢行し、エンジンの出力アップやトランスミッションのフルシンクロメッシュ化などを施した311型系に移行した。

 1961年に入ると、ブルーバードのクルマとしての完成度が中身と生産体制の両面で高まっていく。2月には、女性ユーザーをターゲットに据えた「ファンシーデラックス」と呼ぶ新グレードをリリース。8月になると2度めのマイナーチェンジが実施され、型式が312となる。312型系では、内外装の意匠を変更。フロントグリルは幅をフラッシャーランプいっぱいにまで拡大し、同時にリアランプやフェンダーのデザインも一新した。ボディカラーに関しても、明るい色調の仕様が新たに設定される。室内はインパネの造形を近代感覚あふれるアレンジに変更。機構面では新設計のトランクリッドなどが組み込まれた。そして10月になって、日産初の本格的な乗用車生産工場である追浜工場(神奈川県)が操業を開始し、ブルーバードの量産体制(それまでは吉原工場のみで生産)は一気に拡大した。

 年を追うごとに完成度を高め、国産小型乗用車の筆頭格に成長していったダットサン・ブルーバードは、1963年9月になると全面改良が行われ、2代目となる410型系に移行する。基本スタイリングに関しては、イタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナが手がけることとなった。