ホンダの歴史3 第三期/1976-1984 【1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984】

自動車総合メーカーへの躍進

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シビックの成功で勢いを増したホンダは、
1970年代中盤から1980年代前半にかけて
車種ラインアップの大幅な拡大を実施する。
同時に新しいディーラー網も構築。
海外ではアメリカに4輪車工場を建設し、
欧州メーカーとの提携も実現した。
車種展開の大幅な拡大

 CVCCの開発でいち早く排出ガス規制を克服したホンダ技研は、1970年代後半になると車種ラインアップの拡大を実施するようになる。その第一弾となるモデルが1976年5月にデビューしたアコードだ。シビックのコンセプトにゆとりを加えた上級サルーンは、まず2ボックスのハッチバック車が登場し、1年5カ月後の10月にはノッチバックの4ドア車を追加した。メカニカルコンポーネントはシビックとの近似性が強いが、アコードには車速感応型パワーステアリングが設定される。

この背景には面白いエピソードがある。ある日、本田宗一郎最高顧問がふらっと和光研究所を訪れ、アコードの試作車に試乗。そして開口一番、「ハンドルが重いなぁ」と苦言を呈したのだ。当時は小型車にはパワーステが必要ないと言われていた時代。ホンダでも先行研究で開発済みではあったが、市販車への装着には至っていなかった。そこで開発陣は急遽、試作車にパワーステを組み込んでテストを開始し、予想以上の好印象を得る。結果的にアコードは、このクラスで最初の車速感応型パワーステ装着車となった。

 アコードは発売当初から好評を博し、たちまち基幹モデルへと成長していく。2モデルの屋台骨を得たホンダは、今度は販売網の拡大を画策する。従来の2系列に加えてベルノ店を新設したのだ。ホンダらしいスポーティなイメージを持たせたベルノ店には、まず新車としてスペシャルティカーのプレリュードが展示される。FFの悪癖を感じさせないプレリュードの走りはすぐに話題となり、ベルノ店のイメージアップに貢献した。

 その後もホンダの新車攻勢は続く。1979年7月にはシビックが初のフルモデルチェンジを実施し、「スーパー・シビック」へと移行する。1980年2月にはベルノ店向けのクイントがデビュー。同年8月にはバラードが発表された。1981年9月にはアコードが2代目に移行し、同時にベルノ店向けのビガーも登場している。

海外事業での成功

 前記のニューモデルのなかで、ホンダの海外展開におけるキーポイントとなったクルマが2台ある。バラードと2代目アコードだ。

 バラードは英国でライセンス生産される。経営危機に陥っていたBL(ブリティッシュ・レイランド、ローバーの前身)は1979年12月にホンダ技研と技術提携を結び、ホンダが開発した小型車をライセンス生産する契約をとりつけた。当時、日本の自動車メーカーの中で欧州メーカーと大々的な契約を結んでいた会社はなかったため、ホンダとBLの提携は大きな話題を呼ぶ。結果的にBL版バラードは、1981年10月にトライアンフ・アクレイムの名でリリースされることとなった。

 2代目アコードは北米での戦略車として活躍する。1978年2月に設立されたHAM(ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング)は当初、2輪車のみを生産していたが、1980年1月には4輪車工場の建設が発表される。同年12月に着工し、1982年11月1日には第1号車がラインオフした。そのクルマが2代目アコードだったのだ。高品質のアメリカ製アコードは北米市場で大注目を集め、やがて乗用車クラスで販売台数トップレベルの人気モデルに成長していく。

スポーツ指向の復活

 国内では車種ラインアップの拡充が依然として進んでいった。1981年10月には「トールボーイ」スタイルのシティがデビュー。広告展開と合わせて、大ブームを巻き起こす。1982年11月には、リトラクタブルライトを採用した2代目プレリュードが登場した。

 1983年にホンダがF1に復活すると、市販車でもスポーティ指向のモデルが相次いでデビューするようになる。1983年6月にはバラード・スポーツCR-X、1983年10月にはシティ・ターボⅡが登場。3代目シビック(ワンダー・シビック)も、よりスポーティな方向に進化する。一方、シティ・カブリオレやシビック・シャトルという新ジャンルの個性的なモデルもリリースされた。この時点でホンダは、スポーティでオリジナリティ性の高いクルマを開発する個性的なメーカーとして認知されるようになる。