サニー・トラック 【1971〜1994】
超ロングセラーモデルとなった2代目“サニトラ”
自家用小型車の“マイカー”がまだまだ高嶺の花の存在だった1960年代初頭の日本。その状況下で比較的順調な販売成績を残していたのが、小型の商用モデルだった。各自動車メーカーはこの市場ニーズを探り、小型商用車のラインアップに力を入れるようになる。それも、乗用車と基本メカニズムを共用し、コストダウンが図れる派生型の小型トラックの開発を積極的に推し進めた。
その先頭を切ったのが、軽三輪トラックの開発で技術力を高めていた東洋工業とダイハツ工業だった。東洋工業は1964年12月にファミリア・ベースの500kg積小型トラックを発売。1965年10月になると、ダイハツ工業がコンパーノのトラックモデルをリリースする。また、新興メーカーの本田技研は1965年11月にP700を発表し、古参のいすゞ自動車はワスプ(1963年6月デビュー、乗用車のベレットがベース)の改良を図った。さらに、トヨタ自動車工業もこの市場に参入し、パブリカ・トラックを1964年2月に発売する。
群雄割拠を呈する日本の小型トラックマーケット。ただし、ダットサン・トラックでひとクラス上の市場をリードしていた日産自動車だけは、この状況を冷静に観察していた。そして、渾身の新型車をベースとするまっさらな小型トラックの開発を着々と進行させる。
日産の新しい小型トラックは“サニー1000トラック”の車名を冠して1966年10月に発表され、翌1967年2月になってB20型“ダットサン・サニー・トラック”に改称されて市場に送り出される。キャブとリアが一体となったモノコックボディに、先進のA10型988cc直4OHVエンジン(56ps/7.7kg・m)を搭載した同車は、乗用車ライクに走れる快適な小型トラックとして高い人気を獲得した。
小型トラックのブームが一段落し、自家用小型車のマイカーが隆盛を極めるようになった1960年代終盤、各自動車メーカーは小型トラックが役割を終えたと判断し、次第に開発と生産規模を縮小するようになる。一方、サニー・トラックの販売が好調な日産自動車は、他メーカーとは別の戦略を採った。小型トラックを基幹車種のひとつに据え、次期型の開発を鋭意推し進めたのである。また、生産工場に関しては提携関係にあった愛知機械工業に移管する旨を決定した(1970年2月より実施)。
次期型サニー・トラックの開発に際し、日産のスタッフは「加速性、運転のしやすさ、積載性、経済性、安全性といった項目を、さらに高い次元に引き上げる」ことを目標に掲げる。ベース車両は開発中の2代目サニー(B110型)で、既存モデルと同様、モノコックボディのトラックの開発を目指した。
スタイリングに関しては、より豪華でスタイリッシュな演出を施す。フロントグリルはセダンモデルと共通のステンレス製3ピース構造を採用。華やかなメッキパーツの装着箇所も増やした。さらに、ボディ各部の強度や剛性も従来以上にアップさせる。ボディカラーには、サンシャインホワイト/サンシェイドブルー/サンキストイエローの3タイプを設定した。
インテリアについては居住空間と荷台スペースを広げたうえで、インパネデザインの近代化やシート形状の変更、ヒーターファンを利用した強制ベンチレーションの採用などを実施する。また、ミッションにはユーザーの使い勝手を考慮してフロア式4速MTとコラム式3速MTを用意した。
搭載エンジンはセダンなどと共通のA12型1171cc直4OHVを組み込む。5ベアリング・クランクシャフトなどを内蔵した新ユニットは高い静粛性と吹き上がりの良さを確保しながら、68ps/9.7kg・mのパワー&トルクを発生した。足回りに関してはフロントにマクファーソンストラット式の独立懸架を新採用し、乗り心地のさらなる向上が図られる。
2代目となるサニー・トラックは、B120の型式を冠して1971年1月に市場デビューを果たす。車種展開は上級仕様のデラックスと標準モデルのスタンダードを用意。2タイプともフロア式4速MTとコラム式3速MTの選択を可能とした。
他メーカーの小型トラックが販売を縮小、もしくは中止したこともあり、B120型系サニーは順調に販売台数を伸ばしていく。そして乗用モデルが3代目(B210型系)に移行したのと同時期の1973年5月には、ホイールベースを230mm、荷台部を295mm延長し、プロペラシャフトに2分割3ジョイント・タイプを採用したロングボディ車(GB120型)が追加され、小型トラック市場のシェアを圧倒するようになった。ちなみにロングボディ車のGB120型の登場を機に、タンデムマスターシリンダーのブレーキ機構やクランクケース・ストレージ方式の燃料蒸発防止装置などが奢られた。
日本の小型トラックの定番モデルに成長した2代目サニー・トラックは、その後も着実に進化の過程を歩。1975年10月には、エンジンの改良および酸化触媒の装着による日産排出ガス浄化システム(NAPS)の採用によって昭和50年度排出ガス規制を克服。1978年4月にはマイナーチェンジを実施し、樹脂一体成型ラジエターグリルやタルボ型フェンダーミラー、丸形メーター、間欠ワイパー、黒色リアコンビネーションランプリムなどを装着したB121/GB121型系に移行した。さらに1981年10月になると、排出ガス再循環装置(EGR)の改良により昭和56年度排出ガス規制をクリアしたモデルが登場。同時に、ICオルタネータや運転席ドアポケット、アンダートレイ、リアゲートチェーン、大型ロープフックなどを採用して信頼性と利便性の向上を達成した。
2代目サニー・トラックの進化はまだまだ続く。1986年11月にはフロント合わせガラスやELR付きシートベルトを採用したB122/GB122型系がデビュー。この時、車名は“日産サニー・トラック”に変わった。1988年10月になると、電子制御キャブレターや三元触媒、O2センサーを用いた混合比フィードバックシステムなどを採用して昭和63年度排出ガス規制を克服。さらに、角型ヘッドランプの採用やフロントグリルの意匠変更、シート地とカラーリングの一新、フロントブレーキのディスク化、ラジアルタイヤの装着、点火システムのフルトランジスタ化などを実施し、内外装と走りのイメージチェンジを図った。
なぜ、長いあいだに渡ってサニー・トラックが売れ続けたのか−−。もちろん、クルマそのものの出来の良さ、具体的にはA型エンジンのリニアで気持のいい吹け上がりや軽量ボディ+FR駆動方式による俊敏な運動性能といった特性がクルマ好きを惹きつけたことが大きな理由だが、ほかにも多くの要因があった。改造カスタム車のベースモデルとして高い人気を博した、モータースポーツの安価なベース車両として重宝された、1980年代後半以降のレトロカー人気の高まりの中で“本物のレトロカー”として注目が集まった、メカいじりの基本を知る上で格好の教科書となった−−こうした数々の特徴が、サニー・トラックの寿命を伸ばしたのだ。
結果的にサニー・トラックは、バブル景気崩壊後の1994年11月に生産が中止される。日産の業績悪化による車種整理、環境および安全対策に関わるコストの大きさなどが、生産終了の理由だった。しかし、サニー・トラックは新車カタログから落ちた後も中古車市場で高い人気を維持し続け、2000年代に入ってもその人気は衰えないままでいる。開発陣と生産技術陣が28年あまりも愛着を込めて研鑽を積み重ね、ユーザーもその努力に応えるように愛でる−−サニー・トラックはメーカーとユーザーで育てた、まさに真の日産名車である。