スバルデザイン1 【1953〜1967】
高度な技術を体現。航空機から生まれたデザイン
1952年に対日講和条約が批准され、日本が再び独立国家になると、産業界にも変化が訪れる。戦後に解体された財閥や大企業が系列グループとして再結集し始めたのだ。旧中島飛行機の各社も再び集まり、1953年には富士重工業(現SUBARU)を設立する。翌1954年には、モノコックボディにウィッシュボーンタイプの独立懸架という先進的なメカニズムを採用する試作乗用車の「P-1」を完成させた。
開発したP-1は「すばる(=牡牛座6連星)1500」として量産化する予定だった。しかし、当時の富士重工業の資本力から考えるとあまりにもリスクが大きく、結果として量産化は中止となってしまう。ここで意気消沈しないのが6連星の開発陣。1955年に公表された通産省の“国民車構想”を追い風に、すばる1500の試作で得た技術と経験を生かして新企画の軽四輪乗用車の開発に邁進していった。
富士重工業で軽四輪乗用車の生産計画“K-10”が承認されたのは、1955年12月。基本コンセプトは「大人4名がゆったりと乗れること」で、開発陣は最初に全長3000×全幅1300mmの長方形を描き、そこに4つの座席をできるだけゆったりととることから検討を始める。残ったスペースに割り当てるドライブトレーンは、様々な議論を重ねた結果、RR(リアエンジン・リアドライブ)方式に決定した。
ボディに関しては、モノコック式を基本としながら徹底した軽量化が図られる。車体鋼板は外板が0.6mm、フロアパネルが0.8mmの薄型タイプを用い、さらにルーフには強化プラスチック(FRP)を採用。スタイリングは高い剛性を確保するために、曲面デザインでアレンジした。搭載エンジンはスクーター用を発展させた2サイクル空冷2気筒356cc(EK31型)。車両重量は、スクーター2台半ぶんの385kgに収めた。
独創性あふれる軽乗用車は「スバル360」と名づけられ、1958年3月に発表、5月に発売される。愛嬌のあるユニークなスタイルは“出目金”“てんとう虫”などの愛称がつき、クルマ自体の進化とともに大ヒット作に成長した。
スバル360がデビューした翌年の1959年、“C-9”と称する軽商用車の開発がスタートする。ここでも6連星の開発陣のこだわりは如何なく発揮され、クラストップの積載性と走行性能の具現化を目指すこととなった。
車両レイアウトは、商用車にふさわしい高剛性と耐久性を確保するために独立フレームを導入する。ボディについては、当時主流のボンネット型ではなく、キャブオーバー型を採用。荷台スペースを最大限に確保できるというのが、採用の理由だった。エンジンとギアボックス、前後サスペンションは基本的にスバル360から流用し、搭載方法を見直しながら車体に組み込む。さらに、荷台高を低くし(350mm)、ドアウィンドウをフルオープン化するなど、随所に工夫を凝らした。
広い荷台とRR方式の安定した走り、そして四輪独立懸架の足回りによって快適な乗り心地を実現した新しい軽商用車は、「サンバー」の車名を冠した軽トラックとして1961年2月に市場デビューを果たす。さらに同年9月にはワンボックスボディのライトバンを追加。翌'62年3月にはライトバン4ドアを設定した。
軽自動車での成功によってクルマ造りの自信を深めた富士重工業の開発陣は、この勢いを駆って念願の小型乗用車計画を推し進めていく。
開発コード“63-A”と名づけられた小型乗用車を設計するにあたり、開発陣は非常に凝った機構を企画する。レイアウトと駆動方式は、縦置き搭載のフロントエンジンにフロントドライブを採用。エンジン本体はアルミ合金を多用した水冷式の水平対向4気筒(量産時はEA52型977cc水平対向4気筒OHV)に決定した。エンジン高が低く抑えられて重心を下げられる、さらにフロントのオーバーハングも短くできるといった特性を重視したうえでの決断である。また冷却機構には、国産で初めてデュアル・ラジエター・システムを導入した。
スタイリングは、フルモノコックボディをベースにセミファストバック風のスポーティなフォルムを構築。パーツ類は可能な限り一体で成型し、スマートな外観に仕立てるとともに生産効率の向上を図った。ほかにも、低くてシャープなボンネットラインにアルミ押し出し材のグリル、流れるような弧を描くサイドライン、シンプルながら存在感のあるリアビューなど、各所で個性を打ち出した。
富士重工業初の量産小型乗用車は、「スバル1000」の車名を付けて1966年5月に市場デビューを果たす。販売成績の面ではライバルのトヨタ・カローラやダットサン・サニーに及ばなかったものの、「スバルの小型乗用車=先進の水平対向エンジン車」という図式は、このモデルによってユーザーから認知されるようになった。