インフィニティQ45 【1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997】

先進機構を満載した豪華ビッグサルーン

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世界の高級車市場へ本格参入

 後にバブル景気と呼ばれる未曽有の好況に沸いていた1980年代後半の日本。日本製品は“Japan as No.1”と称され、余裕ある経済力で日本の企業は海外の土地や芸術品などを相次いで購入していた。そんな喧騒の最中、日本の自動車メーカーは豊富な開発資金をバックボーンに新しいカテゴリーのクルマをリリースするようになる。

 シーマやパイクカーという大ヒット作を生み出し、同時に「1990年代には技術の世界一を目指す」という“901運動”の旗印を掲げていた日産自動車は、好景気を背景に新しいクルマのカテゴリーへの参入を目指す。“大型高級サルーン”市場への進出だ。従来はメルセデス・ベンツやBMW、ジャガー、キャデラックなどの欧米車で占められていたマーケットに、まっさらな新型車をもって挑もうとしたのである。

“独自の個性”を持った高級車の開発

 新しい大型高級サルーンを企画するに当たり、開発陣は世界中で高評価を受けている日本製品の優位性を踏まえ、独自の解釈でアレンジした高級車像を模索する。日本ならではの高級サルーンを創出し、そのオリジナリティ性で市場での勝負を仕掛けようとしたのだ。

 スタイリングに関しては、高級車では定番のメッキグリルを廃し、その代わりに七宝焼きの専用オーナメントを装着するという独自のフロントマスクを提案する。サイドビューは2880mmのロングホイールベースを生かした流麗なラインを創出。さらに、ダイカスト製のドアハンドルやアルミ材のサイドウィンドウモールを装着し、本物感と重厚感を演出した。リア部はコンビネーションランプ&ガーニッシュを幅広のU字型にアレンジし、1990年代に向けた斬新さを強調する。ボディカラーにも凝り、塗料に含まれるカーボングラファイトの作用で光源や見る角度の変化に応じて色味が変わる“トワイライトカラー”を採用した。

 インテリアについては、「人とクルマの一体感」の追求がメインテーマとなる。インスツルメントパネルとサイド、さらにリア回りの造形は、乗員を優しく包みこむような柔らかな曲線基調でデザイン。また、ドアの開閉およびキーの抜き差しに応じて運転席とステアリングホイールが自動的に動き、乗降性を向上させるオートドライビングポジションシステムの先進機構も装備する。各部のアレンジにもこだわり、インパネには漆を塗ったうえでチタン粉を吹きつけ、さらに金粉を蒔絵のように散りばめる“KOKON”(ココン)仕様を採用。シート地には上質な素材のレザーとモケットを用意した。

新開発4.5リッター・V8&4輪マルチリンクサス搭載

 オリジナリティに対するこだわりは、メカニズムにも存分に反映される。搭載エンジンはシリンダーブロックとヘッドにアルミ合金製鋳物を採用し、可変バルブタイミング機構やマルチポートインジェクションも組み込んだ新開発のVH45DE型4494cc・V8DOHC32V。パワー&トルクは280ps/6000rpm、40.8kgm/4000rpmを発生する。組み合わせるミッションには、シフトアップおよびダウン時にエンジントルクを制御する専用チューニングのDUET-EA㈼(4速AT)を採用した。

 足回りは同社のスカイラインやフェアレディZに設定して高評価を博していた4輪マルチリンク形式を導入し、高級車のキャラクターに合わせてチューニングを決定する。さらに、市販車としては世界初の“油圧アクティブサスペンション”装着車もラインアップに加えた。

キャッチフレーズは「ジャパン・オリジナル」

 日産初の大型高級サルーンは、「きっと、日本が変わっていく」というキャッチを冠したティーザーキャンペーンを経て、1989年10月に発表、翌月から市販に移される。車名は米国市場の新販売チャンネルのネーミングをそのままつけ、“インフィニティQ45”と称した。

 キャッチフレーズに「ジャパン・オリジナル」とつけたインフィニティQ45の車種展開は、標準仕様のほかに本革内装と鍛造アルミホイールを装備した“Lパッケージ”、Lパッケージに油圧アクティブサスペンションを加えた“セレクションパッケージ”という計3タイプが用意される。車両価格は520〜630万円(東京標準価格)と、当時の数ある日産車の中で最高価格帯に位置していた。

 市場に放たれたインフィニティQ45は、その独特の高級車コンセプト、具体的にはグリルレスのフロントマスクに七宝焼きのオーナメント、トワイライトカラー、蒔絵風のKOKONインパネなどで注目を集める。また走りに関しても独特で、4輪マルチリンクのシャシーやVH45DE型エンジンによるパフォーマンスは、このクラスの高級車としては異例にスポーティな味つけだった。

 オリジナリティあふれる高級車造りを市場でアピールしたインフィニティQ45。しかし、販売成績の面では苦戦を強いられる。当時の日産スタッフによると、「主な要因は2点。フロントマスクと強敵の存在」だったという。「高級車の顔=立派なグリル」という概念が強かった当時の日本市場では、グリルレスのマスクは不評をかう。さらに、欧州の高級車造りとユーザーの傾向を徹底的に研究して開発に生かし、インフィニティQ45と同時期にデビューしたトヨタ・セルシオ(輸出名レクサスLS400)が、市場シェアを圧倒したのだ。インフィニティQ45は動力性能の高さやスポーティな走りで高評価を得たものの、セルシオの重厚なスタイリングや室内の静粛性の高さ、そして高級車らしいゆったりとした乗り味にはかなわなかったのである。

マイナーチェンジでグリルを装着

 インフィニティQ45の市場シェアを引き上げようと、開発陣は渾身のマイナーチェンジや車種追加を実施していく。
 まず1990年10月には、安全性の強化と装備の充実化を実施。とくに、V-TCS(ビスカスLSD付きトラクションコントロールシステム)やオートリターン機構付きリアパワーシートといった先進機構の装備が注目を集める。同時に、インフィニティQ45のホイールベースを150mmほど延長し、専用装備品を満載したVIPカーのJG50型系プレジデントを市場に送り出した。

 1993年6月になると、内外装をメインにしたマイナーチェンジを敢行する。不評だったフロントマスクには、新たに縦桟基調のメッキグリルを装着。さらにヘッドライトやボンネットフード、バンパーなどのデザインも一新した。内装では、高級車の定番アイテムである木目パネルを新たに採用。また、シート表地の変更なども行った。

 ユーザーのニーズに合わせる仕様変更を実施したインフィニティQ45だったが、販売成績はそれほど回復せず、そのうちにバブル景気崩壊の余波による日産自体の経営の逼迫が深刻化するようになる。そして北米マーケットでは、1996年にFY33型系シーマが2代目のインフィニティQ45と称して市場デビュー。日本でも同年9月、やはりFY33型系シーマに統合される形で市場から退くこととなった。

 人気の面ではセルシオの影に隠れ、苦戦を強いられ続けたインフィニティQ45。しかし、日本の自動車メーカーによる高級車市場への参入は、当時の海外の高級車メーカーに少なからぬ影響を与えた。とくに樹脂パーツの仕上げのよさや先進メカニズムのコスト面などが注目を集め、結果的に従来の高級車造りの概念を大きく変えることとなる。さらに「大衆車メーカーでも高級車の分野に進出できる」という事実が証明され、後のフォルクワーゲン社などの車種戦略にも多大な影響を及ぼしたのである。