フェアレディ 【1960,1961,1962】

アメリカに輸出されたファースト貴婦人

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フェアレディの原点、S211型の誕生

 現在では「GT-R」が日産を代表するスーパースポーツの座に座っているが、歴史的に見ると「フェアレディ」こそ、日産が生み育てたスポーツカーである。GT-Rは、かつてのプリンス2000GTがルーツ。対してフェアレディは、1958年にごく少数が製作された日本初のFRP(ファイバーグラス強化プラスチック)製ボディの持ち主、1958年に誕生したS211型のダットサン・スポーツが原点である。

 S211型は、日産の当時の主力小型乗用車だった210型セダンのシャシーを流用し、モダーンな流線型4シータースタイルに仕上げたオープンモデルだった。スポーツカーというより、お洒落なパーソナルカーというイメージで、パワーユニットは210型セダンと共通の988cc、直列4気筒OHVを搭載。最高出力は僅か34ps。それでも車重がセダンの925kgに対して765kgに軽くなったため、トップスピードはセダンの90km/hを大幅に上回る115km/hをマークした。

 S211型は、日産車の先進イメージを牽引する役割りが期待された。その一貫として1959年3月のロサンゼルス輸入車ショーに出品される。1959年は日産が北米市場への輸出を細々とだがスタートさせた時期だった。ショーに出品したS211型は、右ハンドル仕様。販売モデルというより、日産(当時のブランド名はダットサン)のネーミングを覚えてもらうための名刺代わりのような存在だったらしい。しかしS211型は、思いがけず好評を博す。何名かの熱心なユーザーから購入の申し込みが舞い込む。当時S211型のようなコンパクトサイズで、4シーターのオープンカーはなかったのだ。女性が気軽にドライブできる手軽なパーソナルカーとして、なかなか魅力的に映ったらしい。

アメリカ市場を目指し大幅改良

 日産はS211型のショーでの好評に勇気を得て、北米市場で販売する左ハンドル仕様の改良型の開発に着手する。前置きがいささか長くなってしまったが、その1960年にデビューする改良型こそ、今回の主役であるSPL212型の車両型式を名乗る、初代フェアレディだった。

 SPL212型は、エンジンを一新。フロントサスペンションも独立式に進化させた意欲作だった。エンジンは1959年6月にデビューした初代ブルーバード用の1189cc、直列4気筒OHVを搭載。最高出力は48psに増強されトランスミッションはシフトレバーが短く、操作性に優れたリモートコントロール式の4速フロアタイプが組み合わされた。フロントサスペンションは横置きトーションバーとダブルウィッシュボーンの独立タイプである。

 SPL212型はスタイリングこそS211型とほぼ共通だったが、ボディの材質も変えていた。S211型のFRP製から一般的なスチール製に変更したのだ。この変更は、当時の技術ではFRP製ボディの製作が難しく量産化ができなかったからだった。スチールボディ化にあたって車重は885kgに増加したが、パワーアップ効果は顕著で、最高速度は132km/hに上昇していた。ちなみに「フェアレディ」というネーミングは、川又社長が北米視察の折、ブロードウェイでミュージカル“マイ・フェアレディ”を見て感激し、命名したと伝えられている。
 初代フェアレディとなったSPL212型は、型式番号の“L”が示すとおり左ハンドル仕様のみの輸出専用車だった。当時の日本ではクローズドボディのセダンでも夢の存在、ましてやオープンボディのスポーツモデルなど、購入できるユーザーが存在しなかったのである。

日産のイメージリーダーとして成長

 SPL212型フェアレディのカタログには「スポーツカー・パフォーマンス、ピュアファミリーカー・コンビニエンス、スモールカー・エコノミー」というキャッチコピーが記載され、その魅力ポイントを的確に表現していた。初代フェアレディは、数こそ多くなかったものの、日産のイメージリーダーとしての道を歩みはじめる。

 1960年10月にはエンジンを60ps/5000rpmに大幅にパワーアップして性能をリファイン、SPL213型へと発展する。SPL213型は135km/hのトップスピードこそ変わらなかったが、加速力がシャープになりスポーツカーと呼んでも差し支えないパフォーマンスを初めて手にした。1962年4月にラスベガスで開催されたUSSC(ユナイテッドステイツ・スポーツカークラブ)主催のレースの女性部門で、オースチン・ヒーレー・スプライトなどの英国製のライバルを退け優勝を飾った。