フェアレディ1600 【1965,1966.1967.1968.1969】

シルビアの心臓を積み、走りを磨いたSP311

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1962年10月、フェアレディの名が
初めて国内で使われた
フェアレディ1500(SP310)が登場する。
その発売から約2年半あまり、
フェアレディは1600ccユニットを搭載するなど、
大きな変更を受ける。
165km/hのトップスピードを誇ったSP311の誕生である。
日産スポーツ車のはじまり

 1952年1月、ダットサンDC-3で始まった第二次世界大戦後の日本の、というより日産のスポーツカーは、その後1959年のFRP製ボディを持ったS211を出現させるまでになっていた。いずれも、既存の量産型セダンのシャシーコンポーネンツを流用し、オープンタイプの4人乗りのボディーを組み合せていた。絶対的に生産台数が限られるのだから、コストダウンのためには最良の方法だったのである。

 だが、早晩、日本国内の市場は飽和状態になることは目に見えていたから、日本車もアメリカをはじめとする海外への輸出を真剣に考えなくてはならないことになった。同じ頃、英国製を中心としたヨーロッパ生まれの小型スポーツカーが、アメリカの若者を中心として大きな人気を集めていた。英国のMGB、トライアンフTR、オースティン・ヒーレー・スプライト、イタリアのアルファロメオ・ジュリエッタ、ドイツのポルシェ356などである。それらの多くは、やはり既存の量産車の部品を流用してはいたが、エンジンに高度なチューニングを施し、トランスミッションやサスペンションはもとより、ボディスタイルにも特別製のものが造られていた。格好だけを真似た「屋根なしセダン」ではもはや通用しなくなっていたのである。

S211からSP310へ

 スポーツカーに期待を持っていた日産では、ヨーロッパ製の小型スポーツカーに匹敵するモデルの開発を本格化させることとなった。まず、1962年10月にブルーバード310のシャシーに補強のX型フレームを追加、サスペンションもブルーバード用を強化したものとし、セドリック用の排気量1488ccの直列4気筒OHVエンジンを最高出力71ps/5000rpmに軽くチューンアップして搭載、まったく新しくデザインされた2+1(後部座席は横向き)のスチール製オープンボディを組み合せた本格的な小型スポーツカーを、「ダットサン・フェアレディ1500(SP310)」の名で発売した。

ちなみに、「フェアレディ」の名は、プラスチックボディを持った旧型の輸出専用モデルであった「SPL212」に使われていたもので、当時の日産自動車社長、川又克二氏のアイデアにより、ミュージカルの「マイフェアレディ」から採られたものだという。

第1回日本GPで栄冠に輝く

 国産車としては初の本格的なスポーツカーとなった「フェアレディ1500」は、1963年5月に完成間もない三重県の鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリレースに出場、スポーツカー1300〜2500ccクラスで田原源一郎のドライブにより、圧倒的な強さを見せて優勝する。

レースに出場したフェアレディ1500には、2基のSUキャブレターが装備されていたが、6月からは市販車にも標準装備されるようになった。エンジンのパワーは80ps/5600rpmに向上、最高速度は155km/hに達した。また、FRP製のデタッチャブルハードトップが装備可能となり、居住性も大幅に向上した。レースで得られた技術的進化が、量産車にフィードバックされたのである。

各社スポーツカー市場へ進出

「フェアレディ」のヒットが起爆剤のひとつとなり、国産車にも相次いで本格的なスポーツカーが登場する。1963年10月には531cc直列4気筒DOHCエンジンを搭載したオープン2シーターの小型スポーツカー「ホンダS500」がデビューし、1964年4月には国産車として初めて「GT(Gland Touring)」の名を冠したいすゞ自動車の「いすゞ・ベレットGT」が登場、ホンダは「S500」の排気量を606ccに拡大して「S600」へと進化させる。さらに、1965年4月には、トヨタが「パブリカ」の水平対向空冷2気筒OHVエンジン(790cc)をチューンアップし、空気力学的なスタイルのボディと組み合せた「トヨタ・スポーツ800」をデビューさせるといった具合である。

そのほかにも、ダイハツはフル4シーターの「コンパーノ・スパイダー」を登場させ、実用的なセダンにさえもチューンアップしたエンジンと固められた足回り、室内にバケットシートやエンジン回転計を標準装備とした「スポーツモデル」が登場することになる。省エネルギーや安全規制などは今日から見れば極端に緩かった当時は、スポーツカー、あるいはスポーティーカーの爛熟期といえる時代でもあった。

シルビアから1600エンジン流用

 フェアレディはアメリカでの販売価格が2950ドル程度と比較的安価だったことから大きな人気を獲得する。年式は若干ずれるが、同じジャンルのトライアンフTR3やMGBなどもほぼ同じ価格だったが、性能はフェアレディの方が勝っていた。レースでも好成績を挙げるようになり、ボブ・シャープ、ポール・ニューマンなどのドライバーが、SCCAのレースで走らせるに及んで、フェアレディの名はアメリカのモータースポーツシーンでも侮りがたい存在となっていった。

主に、アメリカの市場からの要望に応える形で、「フェアレディ1500」は格段のパワーアップを果たす。1965年5月に発表された「フェアレディ1600(SP311)」がそれで、エンジンは直列4気筒OHVのまま、排気量を1595ccへと拡大し、90ps/6000rpmに増強された。最高速度は確実に160km/hを超えられるようになり、スポーツカーとして十分な性能を備えるに至った。

2000は最高速205km/h達成

 さらに、1967年3月には、フェアレディ・シリーズの究極的なモデルとなる「フェアレディ2000(SR311)」がデビューした。このモデルは、エンジンをU20型直列4気筒SOHCで排気量を1982ccとし、最高出力145ps/6000rpmとしたものである。最高速度は205km/h、0→400m加速は15.4秒と優れた値を見せる。また、アメリカへの輸出を考慮して、様々な安全対策が盛り込まれているのも大きな特徴だ。たとえば、ステアリングボスのパッドは大型化され、インスツルメンツパネルには分厚いクラッシュパッドが張られる。「フェアレディ2000(SR311)」は、1968年のモンテカルロラリーに、ハンヌ・ミッコラのドライブで出場し、総合9位、クラス3位入賞の好成績を残した。

 1962年に「フェアレディ1500(SP310)」としてデビューして以来、そのスタイルは基本的には変わっていなかったのだが、2リッターエンジンを搭載するまでになったことで、シャシーやサスペンションの旧態化は、もはやマイナーチェンジでは隠すことができなくなってしまっていた。そこで、日産はまったく新しいタイプのスポーツカーの開発を開始した。そして、1969年10月に登場したのが、「世界で最も高性能で安価だ」と言われた「フェアレディZ」だったのである。SP/SR系のフェアレディの存在がなければ、名車「Z」も生まれなかったに違いない。

COLUMN
世界に向け、羽ばたいたフェアレディ
輸出専用モデルへと移行した先代の後を受けて登場したSP310、そしてSP311、SR311。これらも、やはり国内登録よりも輸出のウェイトが高いモデルであった。1963年の生産台数は1977台で、国内登録857台、輸出1092台。1964年には生産台数は飛躍的に高まり4556台となり、国内1262台、輸出2795台。1965年には、816台の国内登録に対して、輸出は4293台まで増える。その後も、ケタ違いの輸出台数をマーク。Zシリーズ発売前年の1968年には、生産台数は1万3690台にも達し、847台の国内登録に対して、輸出は1万2699台まで伸ばしている。フェアレディがZカー人気の布石となり、世界に日本車の魅力を存分に知らしめた立て役者のひとつであることは、輸出台数でも証明されている。