ペルソナ 【1988,1989,1990,1991,1992】

カペラ・ベースの上級パーソナルカー

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バブル景気で華やいでいた1980年代後半の日本。
自動車メーカーはこれが長期間続くと見込んで、
積極的な車種ラインアップの拡大に乗り出す。
なかでもマツダの活動はアグレッシブで、
矢継ぎ早に新型車をリリース。
1988年にはカペラ・ベースの上級スペシャルティを発表する。
好景気を背景にしたマツダの積極策

 オイルショックによる経営危機を脱し、1979年11月にはフォードと提携して資本を安定させた東洋工業は、1980年代に入ると車種ラインアップと販売網の拡大を画策するようになる。1984年5月に社名を東洋工業株式会社からマツダ株式会社に変更し、同年11月にロータリーエンジン実用化の生みの親である山本健一が社長に就任すると、その戦略はさらに勢いを増しはじめた。

ときはバブル景気の助走期。大衆車のファミリアの成功だけでは満足できず、次は上級車やスポーツモデルのカテゴリーでもヒット作を出そうと躍起になった。トヨタと日産に続く国内3位のシェアを獲得するためには、この方策が最善と考えたからである。

 1987年12月に山本社長が会長職に退き、通産省出身の古田徳昌が社長に就任すると、その戦略は新たな形となって現れはじめる。好景気を背景に、大衆車クラスの分野でも高級化を打ち出すモデルの開発が進められたのだ。

カペラ・ベースの上級サルーンが登場

1988年10月、GD型カペラ(87年5月デビュー)をベースにした4ドアハードトップボディの上級サルーンがデビューする。車名はパーソナル感を強調する意味で“ペルソナ”とネーミングされた。グレード展開はシート&ドアトリムのアレンジ別に2種類を設定。クロス張りがタイプA、手縫いのレザー張りがタイプBを名乗る。ちなみにペルソナがセンターピラーレスのボディを採用したのは、当時人気を博していたトヨタ・カリーナEDをベンチマークに開発されたためと言われている。

 スタイリングは柔らかいボディラインを基調とし、ほのかな色気を漂わせていたことが特徴である。細部も凝っており、七宝を埋め込んだフロントオーナメント、凹型の大きなテールランプ、アーチ型のピラーラインなどが個性を主張した。イタリアンチックなホイールデザインも、足下のドレスアップに貢献している。

 外観以上に個性的だったのは、インテリアのアレンジだ。インパネからリアのシートバックにかけてのラインに連続性を持たせ、内装の周囲を曲線基調でまとめる。後席自体はラウンジのソファーのような造形で、既存モデルにはなかったくつろぎ感を演出した。インパネのデザインもオリジナリティあふれるもの。とくにライトとワイパーのスイッチ以外をメーター回りのクライスターにシンプルにまとめた点が注目を集める。さらに当時のクルマとしては珍しく、灰皿をオプション設定したことも話題を呼んだ。

 メカニズム面は基本的にカペラからのキャリーオーバーだ。エンジンはF8型1.8L・OHC12VとFE型2L・DOHC16Vの2機種を設定し、それぞれに5速MTと4速ATのミッションを組み合わせる。足まわりは前後ともストラット式で、ペルソナのキャラクターに合わせてダンパー類などはややソフトめにセッティングしていた。

華麗な造形、市場での評判は──

 ペルソナはカペラとは異なり、日本市場の専用モデルとして企画された。そのぶん開発陣は、日本人の高級車における嗜好を存分に取り入れたつもりだった。しかし販売成績は振るわず、1990年3月にマイナーチェンジした後もその流れは変わらなかった。

さらにペルソナのユーノス・ブランド版として1989年10月に発表されたユーノス300も、同じ傾向を示す。結果的にペルソナとユーノス300は92年に生産を終了し、後継のMS-8/ユーノス500に道を譲ることとなった。

COLUMN
マツダ5チャンネルの販売体制
ペルソナがデビューした1980年代末、マツダの首脳陣は販売網に関して重要な戦略を打ち立てる。トヨタ自動車と同様の5チャンネル体制の構築だ。1989年には既存のマツダ店、マツダオート店、オートラマ店に加えてユーノス店とオートザム店を設立。1991年にはマツダオート店をアンフィニ店に衣替えする。取り扱い車種はマツダ店が小型車や商用車などが中心。アンフィニ店はスポーツモデルや高級車、オートラマ店はフォード・ブランド車、ユーノス店は欧州イメージのモデル、オートザム店は軽自動車をメインにラインアップしていた。さらに北米市場ではレスサスやアキュラに対抗して“アマティ”というプレミアムブランドを設立する予定もあったが、母体の経営状況が悪化したために頓挫してしまう。