コンテッサ・クーペ 【1965,1964,1966,1967】

ミケロッティと出会った伯爵夫人

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1964年9月、日野自動車は、
コンテッサの新型モデル、1300をリリース。
まずはセダンが発売され、
1965年4月、クーペがデビューした。
国際的なデザインコンクールで
多くの栄冠に輝いたクーペは、
ミケロッティ作のスタイリングと、
走りでも注目を集めたRR車の傑作である。
各社が欧米メーカーと提携

 日本の自動車工業が、その発展の端緒に付いた1950年代初頭のころ、各メーカーは自動車生産についての、欧米のメーカーとの技術的な格差を短期間で縮めようとした。ヨーロッパやアメリカの自動車メーカーと技術提携を結び、自動車生産についての技術的なノウハウを吸収しようと躍起になっていたのである。三菱自動車はアメリカのカイザー・フレーザー社と、日産自動車は英国のオースティン社と、いすゞ自動車は同じく英国のルーツ・グループと、そして、日野自動車はフランスのルノー公団と各々技術提携を締結、本国仕様とほとんど変わらないモデルを、最初は主要な部品を輸入して日本で組み立てるCKD(コンプリート・ノック・ダウン)方式で、後には完全な国産化を成し遂げて、日本の国情に適した改良を加えたモデルを生産していた。現在のように、世界中に進出する国産車など、誰もが予想だにしない状況にあった。

日野ルノーからコンテッサへ

 第二次世界大戦最中の1942年にいすゞ自動車から分離独立した日野重工業を発端とする日野自動車は、戦時中は戦車の生産に従事し、戦後はディーゼルエンジンの技術を生かして大型トラックやバスなどの大型車を生産した。乗用車部門への進出に伴い、1953年にフランスのルノー公団(当時は国営企業だった)とルノー4CVの生産に関する技術提携を結び、CKD生産を開始した。ルノー4CVは、748ccの水冷直列4気筒エンジンをリアに置く4人乗りの小型4ドア・セダンで、スポーティな走りと燃費の良さで好評を博した。しかし、当時はタクシー用車としての需要が大半であったため、日野自動車では独自に日本の使用状況に見合った改良を加えながら、1957年には完全な国産化を達成する。

 1961年にはルノー4CVで得た技術を生かし、日野が独自にデザインした4ドア・セダンのコンテッサ900をデビューさせた。さらに、1964年にはスタイリングデザインをイタリアン・カロッツェリアの第一人者であったジョバンニ・ミケロッティに依頼し、エンジン排気量を拡大して性能を向上させた新型のコンテッサ1300を発表した。日本のメーカーの多くは、生産に関する技術は習得したものの、スタイリングデザインは感覚や手法の点でかなり遅れていたのである。

ミケロッティとのジョイント

 1960年代当時、海外のデザイナーにスタイリングデザインを依頼する日本のメーカーは少なくなかった。日産はイタリアのピニンファリーナ(ブルーバード410、2代目セドリック)とドイツのアルブレヒト・ゲルツ(シルビア)、ダイハツはイタリアのヴィニアーレ(コンパーノ・バン)、プリンスは日野と同じイタリアのジョバンニ・ミケロッティ(スカイライン・スポーツ)およびフランコ・スカリオーネ(1900スプリント)、三菱はアメリカのハンス・ブレツナー(デボネア)と言った具合だ。こうした中で、最も成功したジョイントが、日野コンテッサ1300クーペであったと言える。コンテッサとは、イタリア語で「伯爵夫人」を意味する。

クーペは65ps、145km/hを達成

 日野コンテッサ1300クーペは、1963年、第10回の東京モーターショーに参考出品されたG・ミケロッティがスタイリングデザインを担当した「コンテッサ900スプリント」で提案されたクーペスタイルを、量産化モデルに改良したモデルで、エンジンもコンテッサ1300セダンと同じ水冷直列4気筒OHVの1251ccだったが、圧縮比を高め、ツインSUキャブレターを装備するなどで出力を10psアップの65ps/5500rpm、トルクは0.3kg-m増しの10.0kg-m/3800rpmへと向上させている。スタイルの空気抵抗が減ったこともあり、最高速度は15km/hアップの145km/hと発表された。性能向上に伴い、フロントブレーキはソリッドタイプのディスクブレーキが装備されている。

 1300クーペの、ウッドパネルが張られたダッシュボードにはエンジン回転計が加えられ、さらにナルディ製のステアリングホイールが装備され、シートはホールド性に優れたセミバケット型に、4速トランスミッションのシフトはフロアシフトとされるなど、スポーティな雰囲気を持つものとなっていた。価格は85万8000円で、1.3リッタークラスのクルマとして、ライバルに比べて割高感は否めなかった。

国際的なデザイン賞を連続で獲得

 コンテッサ1300クーペは、当時の国産車としては異例に美しいスタイルを持ち、1965年7月にイタリアで開催された第5回国際自動車エレガンスコンクールや1966年にベルギーで開催された国際自動車エレガンスコンクール、翌1967年6月にベルギーのサンミッシェル自動車エレガンスコンクールで各々名誉大賞を受賞するという快挙を成し遂げる。スタイリングの完成度の高さは、日本国内よりも外国(とくにヨーロッパ)で評価されていたようである。G・ミケロッティの実力の高さが証明される結果となった。

 日野自動車では、かつてのコンテッサ900スプリントと同様、コンテッサ1300クーペをベースとした新しいGTクーペの生産化を計画、スタイリングデザインをG・ミケロッティに依頼した。コンテッサ1300クーペのシャシーコンポーネンツを受け取ったミケロッティは、900スプリントとほぼ同じスタイルながら、各部の洗練度を増した「コンテッサ1300スプリント」をただ一台だけ完成させ、1966年に日本へと送り返した。しかし、この「コンテッサ1300スプリント」は、その後生産化されることはなかった。そのころ、日野自動車は乗用車部門からの撤退を検討しており、とてもスペシャルティカー「コンテッサ1300スプリント」を生産化する余裕はなかったのだ。悲劇の「伯爵夫人」のその後の消息は杳として知れない。

モータースポーツへの積極的参戦

 余談だが、日野自動車が1960年代初頭の日本でのモータースポーツに熱心だったことはあまり知られていない。1964年に開催された第2回日本GPに「デル・コンテッサFJ」と呼ぶフォーミュラマシンが登場した。これは、チューニングショップの塩沢商工が、コンテッサのエンジンとトランスミッションを使って造り上げたもので、J-3クラスで総合6位を得ている。また、1965年のモーターショーには、やはりコンテッサ1300をベースとした「コンテッサGTプロトタイプ」を出品、1966年8月の全日本ドライバーズ選手権レースでは3位に入賞を果たしている。さらに、1967年の第4回日本GPには、俳優の三船敏郎をチーム監督に頂く、事実上の日野自動車のワークスチームであるチーム・サムライが、ピート・ブロックのデザインによる「ヒノ サムライ・プロト」で挑戦するも、決勝には出走できなかった。日野自動車は1967年にトヨタ自動車の傘下に入り、乗用車生産からは撤退した。

COLUMN
ジョバンニ・ミケロッティという人物
 ジョバンニ・ミケロッティは1921年、イタリアはトリノに生まれる。祖父が馬車の職人、父はフィアットの鋳物技師という環境で育つ。幼少の頃からクルマに興味を持ち、16歳で、ピニン・ファリーナの兄のスタビリメンティ・ファリーナ社に入社。そこでデザインの基礎を学び、頭角を現わす。1949年、スチューディオ・テクニコ・カロッツェリア・ジョバンニ・ミケロッティを設立。カーデザインを専門にフリーランスで行う最初のデザイナーとなった。アルピーヌA106をはじめ、BMW700および1500、プリンス・スカイラインスポーツなど、非常に多くの優れたスタイリングを生んだ。1950~1960年代、美しいスタイリングで一時代を築いた。