オデッセイ 【1994,1995,1996,1997,1998,1999】

背の低い乗用ミニバンという新発想

会員登録(無料)でより詳しい情報を
ご覧いただけます →コチラ


RVカテゴリーへの出遅れ

 価値観の多様化がことさらに強調された1980年代後半の日本。好景気をバックボーンにしたこの流れは、耐久消費財でもある自動車にも顕著に表れ、高級4ドアハードトップ車を中心にした“ハイソカー・ブーム”、少量生産のレトロ・イメージのモデルから生まれた“パイクカー・ブーム”、そしてクロカン4WDやステーションワゴンをメインにした“RVブーム”など、さまざまな流行が出現した。なかでもRVブームの勢いは根強く、形を変えながら1990年代前半に入っても続いていく。

 RVブームを一過性のものと判断し、アコード・ワゴンの設定以外に本格的な対策を施してこなかった本田技研は、そのツケをもろに被る。販売シェアは大きく落ち込み、同社の業績は悪化の一途をたどった。打開策として首脳陣は急遽、RV車の展開を拡大する。いすゞからはビッグホーンとミュー、英国ランドローバーからはディスカバリーのOEM供給を受け、さらに米国クライスラーと販売契約を交わしてジープ・ブランドのモデルも販売した。
 これらはあくまでも急場凌ぎで、開発部門では鋭意、オリジナルの新世代RV車を企画していた。その際、参考意見として北米市場での調査が示される。そこには、ワゴンに代わるモデルとしてミニバンを早急に用意すべきという見解があった。日本国内の状況を見ても、ライバルが多いワゴンやクロカン4WDよりミニバンのほうがシェアを伸ばしやすい−−。開発陣は早速、ホンダ独自のミニバンの開発に着手した。

クリエイティブムーバーの誕生

 ミニバンを開発するに当たって、開発陣はひとつのテーマを掲げる。生活を創造するための新ジャンルのクルマ、“クリエイティブムーバー”だ。レジャービークル後発組のホンダとしては、RVという名称は避けて他メーカーとの差別化を図りたい。さらに既存のRVにはない特性を持つ新しいクルマを開発することが、後発組がシェアを伸ばすためには不可欠と考えたのである。
 開発陣はホンダならではのミニバンに仕上げるために、「乗用車の走り」を重視する。当時のミニバンは商用車の1BOXバンから派生したモデルが多く、乗り心地や操安性に関しては一般的な乗用車より劣っていた。そこで開発陣は、まず乗用車ライクな走りが楽しめるミニバンを作り出そうと計画したのである。メカニズムのベース車として選んだのは、同社のアコード。FF用のシャシーやエンジンなどを使って乗用車ライクに仕立てようとした。開発や生産コストを削減するうえでも、この選択には意味があった。

 ボディは可能な限り低めに、しかも滑らかなラインで仕上げるように努力する。生産工場の制約もあったが、既存のミニバンの欠点である風に対する影響を抑えるためだ。さらにフラットなフロアと広い室内空間を確保するために、インホール形式のリア・ダブルウイッシュボーンサスや低床構造を新設計した。ドライバーの孤立感の削減を狙って、センターウオークスルー機構なども設ける。また開発陣はリアドアの構造にもこだわり、当時のミニバンの主流だったスライド式ではなく、あえて一般的な乗用車と同様のヒンジ式を採用した。

大ヒットモデルに瞬く間に成長

 ホンダ初の本格ミニバンは、1994年10月についに日の目を見る。車名は“オデッセイ”。「1BOXカーの広い室内空間とセダンの快適さや走行性能を合わせ持つ新しい生活創造車」をアピールポイントに掲げた。車種ラインアップは乗車定員が2/2/2人の6名乗りと2/3/2人の7名乗りの2タイプを用意し、エンジン&ミッションは2.2L・OHC16V+コラム式4速ATだけを搭載する。駆動方式はFFとデュアルポンプ式4WDの選択が可能だった。
 既存のミニバンにはない乗用車ライクなルックスと走行性能を持ち、しかも179.5〜245.5万円(FFモデルの東京標準価格)と低めの車両価格に設定したオデッセイは、デビューと同時にユーザーの大注目を集め、たちまちヒットモデルに成長する。さらに、1996年1月に追加された上級仕様のエクスクルーシブや同年9月に登場したポップアップルーフ付きのフィールドデッキも高い人気を獲得した。またオデッセイは北米市場でもヒットし、その利便性の高さからタクシーの“イエローキャブ”にも使われる。

 オデッセイは1997年8月にマイナーチェンジを実施し、新設計の2.3L・VTECエンジンを搭載して走行性能の向上を図る。その2カ月後には3L・V6エンジン仕様のプレステージもラインアップに加えた。このころになると本田技研の業績は急速に回復し、業界第3位の地位を確保するばかりか、業績不振の日産自動車の背中も間近に見えるようになった。
 バブル景気崩壊の直後は「他メーカーに吸収合併される」とまで噂された本田技研。しかしオデッセイのヒットを起爆剤に、同社はV字回復を達成する。その意味で初代オデッセイは、1990年代の本田技研の救世主といえるモデルだ。