145 【1972,1973,1974】

水冷化されたホンダ製スポーツセダン

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空冷エンジンの限界

 独創的なメカニズムを採用し、ライバルよりも高性能を誇る−−。1960年代の本田技研は、ハイパワー指向が徹底していた。しかし1960年代末になると大きな問題が立ちはだかる。排気ガス規制だ。1970年9月にはアメリカの上院で大気汚染防止法、通称マスキー法が可決。日本でも運輸省が主導した自動車排出ガス対策基本計画をもとに、CO/HC/NOxの規制が段階的に実施されることとなった。

 この状況に対して本田技研の開発部門は、「シリンダーの熱変化が大きい空冷方式では、燃焼の均一化と緻密な制御が必須条件の排気ガス規制に対応できない」という結論に達し、エンジンの水冷化を計画する。ここで問題となったのが、社長であり開発現場の事実上の指揮者でもあった本田宗一郎への進言だった。「水冷方式でも最終的に水を冷やすのは空気。それなら故障の原因になる水流系統は省き、最初から空気で冷やす方が効率がいい−−」。そんな信念を持っていた宗一郎に水冷エンジンの開発を説くのは、非常に困難なことだったのである。最終的に開発スタッフは副社長の藤澤武夫を介して宗一郎を説き伏せ、1969年末に水冷エンジンの開発にこぎつけた。

排気量を示す車名でデビュー

 開発スタッフが最初に手掛けたのは、軽自動車用エンジンの水冷化だった。ウオータージャケットをまとった新エンジンはEA型(356cc水冷2気筒OHC)と名づけられ、1971年5月に新型軽自動車のライフに積まれて世に出る。軽自動車用エンジンと並行して、開発スタッフは小型車用エンジンの水冷化にも取り組み、EB1型と呼ぶ1169cc水冷直4OHCユニットを完成させて新世代小型車のシビックに搭載する(市場デビューは1972年7月)。その後、ホンダ1300後継用に排気量を拡大したEB5型1433cc水冷直4OHCも作り上げた。
 水冷エンジンに換装したホンダ1300シリーズは、排気量にちなんで“ホンダ145”と車名を変え、1972年10月に発表(発売は同年11月)される。車種展開は従来モデルと同様にセダンとクーペを用意。EB5型のエンジンには、キャブレター仕様(80ps/12.0kg・m)とメカニカル式燃料噴射装置仕様(90ps/12.5kg・m。クーペFIに採用)を設定した。

145は快適性と上質感が大幅に向上

 開発陣はホンダ145にマイナーチェンジする際、内外装やメカニズムの細部に手を加える。外観はグリルやリアコンビネーションランプのデザイン変更、角型ヘッドランプ(クーペ)化を実施。内装では衝撃吸収式ステアリングや2系統式ベンチレーションシステムを装備して安全性と快適性の向上を図る。メカニズム面では電動ファンの改良と強化ゴム製タイミングベルトの装着、振動の少ない一体型クランクシャフトの導入、ストッパー付きエンジンマウントの装備、消音効果に優れたエグゾーストシステムの採用などで静粛性や耐振性を大幅に引き上げた。

 ホンダ145は強制空冷式のDDAC(Duo Dyna Air Cooling system=一体式二重壁空冷構造)エンジンを搭載した従来モデルに比べてノーズが軽くなり、クセの強い挙動が解消される。またピーキーだった出力特性も、よりマイルドになった。乗り心地も向上し、ファミリーカーとしての快適性がレベルアップする。一方、マニアックなホンダ・ファンからは「F1直系のエンジンが失われた」「他メーカーのクルマと同様の機構になり、存在感が薄れた」「独特のクセを操る楽しみがなくなった」などと評された。

シビックの影に隠れて……

 水冷エンジンを搭載し、快適性も向上したホンダ145。しかし、販売成績は伸び悩んだ。当時の販売スタッフによると、「ライバル車と比較して所有欲を満たす豪華な演出が足りない、基本スタイリングに古臭さを感じる、車両価格がやや高めなど、様々な声が聞かれたが、最大の要因はユーザーの目が最新モデルのシビックに集中したことだった」という。

 開発陣はテコ入れ策として、1973年5月に新AT仕様をラインアップに加える。ホンダマチックと呼ぶ2速セミオートマチックは、P-R-N-☆(スター)-Lの5ポジションを設定。通常走行は守備範囲の広い☆レンジで、坂道などで大きなトルクが必要な場合にはLレンジを使用する。またホンダマチックは、一般的なATに用いられる遊星歯車機構ではなく、平行軸と常時噛合歯車を組み込む独自のシステムを採用していた。

 AT仕様の追加で145ユーザーの裾野を広げようとした本田技研だったが、その施策は徒労に終わる。一方、同社のシビックの受注は絶好調で、生産体制の強化が必須となった。結果的にホンダ145はシビックの増産とラインアップ拡大に伴い、1973年11月にはセダン、翌1974年11月にはクーペの販売が中止され、カタログから消滅した。