トヨタ2000GT世界速度チャレンジ 【1966】

78時間連続走行!世界トップパフォーマンスを実証

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世界トップの座を掛け、スピードトライアルに挑戦

 トヨタ2000GTは、レースで勝てる理想のグランドツーリングカーを目指していた。最終目標はル・マン24時間レースでのクラス優勝だったと言われている。正式デビュー前に開発テストを兼ねて積極的にレースに参戦し、パフォーマンスに磨きを掛けたのは、そのためだった。

 2000GTの高いポテンシャルを示すエピソードが、1966年10月1日から10月4日にかけて、連続78時間、茨城県谷田部の日本自動車研究所で行われた日本車として初のスピードトライアルである。スピードトライアルとはFIA(世界自動車連盟)の公認のもと、文字通り“スピード=速さ”を競うチャレンジ。記録に挑戦する者は、FIAに事前に届けを出す必要がある。しかも速度記録達成は、既存の記録に対して1%以上上回ることが条件。速度記録は世界記録(=絶対的な最速記録)、国際記録(11に細分化されたクラス最速記録)に分けられる。

 トヨタが狙ったのは、排気量1500~2000ccのクルマが属するEクラスの国際記録と、1万マイル(約1万6000km)、1万5000km、連続72時間の世界記録獲得だった。ライバルは国際記録では英国のクーパー(6時間:202.39km/h)、世界記録では、アメリカのフォード・コメット(1万マイル:200.23km/h/1万5000マイル:201.75km/h/72時間:201.21km/h)である。

ドライバーは5名。まず6時間の国際記録を達成

 スピードトライアルに、開発プロジェクトチーム主査の河野二郎は燃えた。チャレンジを行うドライバーは細谷四方洋、田村三夫、福沢幸雄の、すでに2000GTでレースに参戦していた3名に、新加入の津々見友彦、鮒子田寛を加えた5名。夏から精力的にトレーニングを繰り返し、本番さながらの耐久テストを行った。マシンは、日本グランプリで福沢がステアリングを握る予定だった2000GTをベースに改造が加えられた車両(日本グランプリの練習走行中に炎上し、それを修理した)。トライアル車はボンネットをグリーンに塗り分け、本来はフォグランプの位置にロングレンジランプを装着。グリル内に2個のフォグライトを追加していた。燃料タンクは標準車の60Lから2倍の120Lに拡大する。

 マシンの準備は万全、というわけではなかった。トライアル挑戦前夜、急きょ信頼性に不安の残るクラッチを静岡県のヤマハから取り寄せ、メカニックが徹夜で交換している。
 10月1日。茨城県谷田部の日本自動車研究所は快晴に恵まれた。午前10時、人々が固唾をのむなか、静かに2000GTはコースに乗り入れる。2Lの3M型直列6気筒エンジンは、ウエーバー製キャブレターが3連装され200ps/7000rpmまでチューンアップされていた。

 10月1日、午前10時6分、2000GTは3日後のゴールを目指してスタートを切る。2000GTは、全長5.5kmのバンク付きオーバルコースを快走。スケジュールを予定通りこなし、まずクーパーの持っていた6時間の国際記録を更新した。2000GTの記録は210.42km/h。従来の記録(202.30km/h)を8km/h以上も上回る快挙だった。その後も2000GTは順調にラップを重ねる。ドライバー交代は2時間30分ごとに行われ、その折にガソリン補給やタイヤ交換が手際よくこなされた。

台風に翻弄。しかし見事に抜群のスピード性能を実証

 2日目は、台風28号の接近によって天候が急変。早朝から風速10m以上の強風が吹き、雨がそれに加わる。記録を阻んだのは悪天候だけではなかった。エンジンにもトラブルが発生。2000GTは平均速度を落とす。しかしメカニックとドライバーの懸命な努力のもと、幾多の試練を乗り越え再びスピードを取り戻した。

 10月3日、午前10時6分には、走行48時間の世界記録(203.80km/h)を達成。その後もスピードを緩めず、スタート後78時間3分後の10月4日午後4時9分に2000GTはチェッカーフラッグを受ける。最終ドライバーを務めたのは鮒子田だった。
 2000GTは、最終的に、フォード・コメットが持っていた48時間/72時間/1万5000kmの世界記録を打ち破ると同時に、13ものEクラス国際記録を樹立する。これは日本車としては世界初のFIA公認記録だった。2000GTのパフォーマンスが世界トップに到達した証、それがスピードトライアルだった。
※文中、敬称略