ホンダF1チャレンジ第一期01 【1963,1964,1965】

参戦2年目の最終戦。念願の初優勝!



1964年、F1チャレンジを正式発表

 1964年1月、ホンダは年頭記者会見の席上で「前年10月に発売したS500を2月1日よりデリバリー開始し、今年5月10日のモナコGPにホンダF1をデビューさせる」と発表した。F1チャレンジを正式に宣言したのである。
 ホンダのF1参戦は、欧米メディアを中心に数年前から噂に上っていた。本田宗一郎も以前から欧米記者からの質問に「ホンダはF1をやるつもりです。8気筒か12気筒か、はたまたそれ以上のマルチシリンダーかは想像にお任せします」と度々発言していた。ホンダのF1チャレンジは公然の秘密。しかし、その時期は明らかになっていなかった。

 宗一郎がF1について初めて語ったのは、第一期F1チャレンジの監督を務めた中村良夫(初代Sシリーズの開発リーダーでもある)の入社時の面接(1958年3月)だったと言われる。中村が宗一郎に「2輪グランプリだけでなく、F1グランプリレースにも参加される意思はありますか」と質問。それに対し「できるか、できないかは分からないが、俺はやりたいよ」と答えたのだ。中村は戦時中に零戦のエンジンチューニングを手掛け、ジェットエンジンの試作と試験飛行に成功したエリートエンジニアである。以来、中村はF1エンジン開発の機会をうかがっていた。

開発目標はF1最強エンジン!

 ホンダが実際にF1プロジェクトに着手したのは1963年6月だった。宗一郎が開発の陣頭に立ち、まずはエンジン形式を決定する。エンジンはF1エンジン中の最高馬力を狙うことにした。2輪レースを席巻したホンダのお家芸であるマルチシリンダー、高回転・高出力エンジンの4輪版をイメージしたのだ。水冷、横置き、V型12気筒、DOHC4バルブ、ギアボックス一体構造、排気量1500cc(当時のF1規格の上限)まではすんなりと決まった。クランク形式は、宗一郎が高回転に強く、抜群の信頼耐久性が利点のローラーベアリング式の組立てクランクの採用を強力に主張。一般的なメタル一体クランク案を推した中村を退ける。組立てクランクは、構造的に複雑で重量がかさむ。レースではこの点が不利に働くことを中村は憂慮していた。だが、宗一郎の意見は絶対であり批判は許されなかった。

 エンジンの設計は、中川和夫が担当した。中川は2輪グランプリレーサーの経験をベースに開発に没頭。RA270E型エンジンを作り上げる。RA270E型は当時のF1最強の220ps/12000rpm+αを達成。ホンダの高い技術力を実証する。

急遽F1マシンを開発。ホンダ・チームで参戦

 当初、ホンダのF1プロジェクトは、車両を含めた総合チャレンジではなく、エンジンサプライヤーとしての参戦を想定していた。4輪車生産をスタートさせたばかりのホンダに車体まで設計し、ホンダ・チームとして参戦する余裕がなかったからである。

 RA270E型エンジンが完成と同時に中村はヨーロッパに飛び、有力F1チームとの交渉を開始する。そして強豪ブラバム・チームとのパートナーシップをほぼ固めて帰国する。しかし帰国直後にロータス・チームのオーナーであるコーリン・チャップマンが日本まで中村を追いかけてきて、強引な交渉で行った。その結果、ホンダのRA270E型エンジンはロータスへ供給される方向になる。ロータスには、天才ドライバーのジム・クラークが在籍していた。チャンピオンが期待できるチームへの供給決定は朗報だった。ホンダのF1チャレンジはすべて順調のように思えた。しかし好事魔多し。ロータスとの関係は、ロータス側の一方的な事情でデビューレース直前にご破算となってしまう。

 この報告を聞いた宗一郎は「俺はやめんぞ」と周囲に宣言。F1プロジェクトのメンバーを集め「我々には経験はない。しかし我々には技術がある。世界最高のF1カーと作ろうじゃないか」と車両開発を命じる。窮地に陥った時の宗一郎ほど強いリーダーはいなかった。即座に決断し、どんなに困難な課題でも必ずやり切った。

 F1マシンの開発主任には、26歳の佐野彰一が抜擢された。佐野は信頼できるスタッフの力を結集してマシン設計に没頭する。すべてが手探りの中、驚くべきスピードで開発は進捗。1964年の夏に、ホンダ初のF1マシン「RA271」が完成した。
 RA271は、当初予定していたモナコ・グランプリより3ヶ月遅れた8月のドイツ・グランプリで記念すべきデビューを果たす。ドライバーにはアメリカ人ドライバーの新人ロニー・バックナム選手を起用。監督は中村が務めた。チームはすべてが初体験だったため、F1グランプリを経験し学習することからスタート。成績は不振だった。しかし中村はRA271の高い実力に手応えを感じていた。チーム体制が固まり、総力が結集できれば勝つことができると確信する。

「来た、見た、勝った!」、1964年最終戦初勝利

 2シーズン目の1965年は中村がチーム監督を退く。ドライバーはベテランのリッチー・ギンサー選手が加わり、バックナム選手との2名体制でレースに挑戦。必勝を期した。マシンも各部が改良されRA272型に進化する。しかし2年目も戦績は思わしくなかった。
 RA272型は、最高出力のアドバンテージを生かし直線では圧倒的な速さをマークした。しかし、いかんせん重かった。そのため中低速からの加速が鈍かった。ハンドリング面でも課題を抱え、複雑なコーナーが連続するコースを苦手としていた。

 RA272型が、ホンダに初めての勝利をもたらしたのは、デビュー2年目の最終戦「メキシコ・グランプリ」だった。再びチーム監督になってメキシコに飛んだ中村がチーム編成を大きく改革。マシン・セッティングを煮詰めた結果だった。中村はレース経験が豊富でセンスに優れたスタッフを各車両の担当チーフに抜擢。ドライバーともじっくり話し合いチーム活動の円滑化を図る。そして高地で行われるメキシコ・グランプリに適したエンジン設定を施した。

 レースは予選3番手のギンサー選手がスタートからトップに躍り出て、主導権を握る。そして、その座を一度も譲ることなく優勝する完璧な勝利を収めた。この時、中村はホンダ本社に「来た、見た、勝った!」という古代ローマ時代のユリウス・カエサルに倣った、思いのこもった電報を送った。ちなみに1966年シーズンからF1マシンのエンジン排気量は3000ccに拡大されることが決定していた。RA272型の優勝は1500ccマシンの最後の勝利として歴史に刻まれることになった。

 宗一郎は、F1チャレンジを「走る実験室」と呼んでいた。レース挑戦を、様々な技術やノウハウを獲得し生産車に生かすための“実験”と位置づけたのである。当時の生産車、Sシリーズは短いサイクルで数々の改良を受け、完成度を高めていった。組立式クランクや凝ったエグゾーストシステムといったSシリーズとF1マシンの技術的な類似点だけでなく、常に最善を目指すというスポーツスピリットそのものが、両車で共通していた。