名勝負/1967第4回日本GP 【1967】

またも立ちはだかったポルシェの壁

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マシンを熟成。勝つことが絶対条件に

 勝てるレースだった。日産とプリンス自動車が合併した翌年、1967年5月に開催された第4回日本GPは、プリンスから日産にネーミングを変更し、各部をリファインした4台のR380-IIと、3台のポルシェ906勢の争いに興味が絞られた。すでに前年の第3回日本GPでは砂子義一選手のプリンスR380が、同じプリンスR380の僚友、生沢徹選手のアシストもあって滝進太郎選手のポルシェ906を破り総合優勝を果たしていた。日産と合併し新体制で臨んだ第4回は、前年にも増して負けられないレースだった。日産がプリンス自動車との合併でさらに高い技術力を得たことをアピールするのに最良の舞台だったからだ。

 日産R380-IIは前年のプリンスR380から各部がリファインされ、大幅に進化していた。スタイリングは空力特性に優れたラウンドフォルムに一新され、フレームを強化。GR8型の2.0リッターDOHC24Vユニットは一段とパワフルになり耐久性も見直されていた。トランスミッションは耐久性を重視して英国ヒューランド製からドイツZF製に換装された。同時にマシン全体の軽量化も徹底して行われる。

 発表されたR380-IIのスペックは最高出力220ps、車重590kg、トップスピード290km/h。ポルシェ906(それぞれ210ps、575kg、280km/h)と比較して車重以外はより戦闘力の高いものだった。R380-IIは1967年2月中旬には富士スピードウェイでテストをスタートさせ、テスト2日目には2分02秒をマークし高いポテンシャルを見せつける。4月中旬の最終仕様ではラップタイムを1分58秒台まで縮めていた。

日産R380-IIは予選3位スタート

 第4回日本GPではドライバー体制も一段と強化された。R380-IIのステアリングを握るのはプリンス時代からの経験を誇る砂子義一と大石秀夫、そして日産ワークスのエースである高橋国光と北野元の4名。いずれも日本有数の速さを誇る名ドライバー揃いである。ただしプリンスのワークスドライバーとして活躍した生沢徹は、ヨーロッパでレース活動を開始したためR380-IIは用意されなかった。生沢は、ポルシェの日本代理店だったミツワ自動車からポルシェ906をレンタルし日本GPに出場することになる。ちなみに残りの2台のポルシェは酒井正と、滝進太郎がステアリングを握った。

 5月2日の予選は静かな闘いだった。日産R380-II勢は4台とも5〜7周走って2分02秒台を出すと早々にピットに引き上げたのだ。練習中のタイムから予選タイムは2分を切るものと予想されたが、60周/360kmの長丁場のレースに備え無理をしなかった。予選順位は2分02秒の高橋国光選手が3位、北野元選手が5位、砂子義一選手が6位、大石秀夫選手が7位だった。予選トップは1分59秒43を叩き出した生沢徹選手。ポルシェ906勢は予選1位/2位/4位と日産R380-IIより優勢だった。

ポルシェの生沢vs日産の高橋の激闘

 決勝レースは翌3日の午後1時に幕が切って落とされた。スタートは酒井正選手のポルシェ906が先行し、直後に生沢徹選手のポルシェが続く体制。その背後に抜群のダッシュを見せた大排気量の安田銀治選手のローラが割って入り、高橋国光選手のR380-IIは4位で30度バンクに入る。

 1周目に早くもドラマが起こった。S字コーナーの後半で大石秀夫選手のR380-IIがスピンしてガードレールにクラッシュ。レースには復帰するものの大きく遅れたのだ。さらに最終コーナーで安田銀治選手のローラがコースをふさぐカタチでスピン。すでにその時点でローラをパスしていた高橋国光選手は難を逃れたが、砂子義一選手と北野元選手のR380-IIはローラを避けるためにスピンを余儀なくされ大きく遅れる。トップ争いは酒井正選手と生沢徹選手のポルシェ906、高橋国光選手のR380-IIに早くも絞られた。

 3台のなかで生沢徹選手と高橋国光選手が抜け出し熾烈なバトルを展開する。逃げる生沢徹選手のポルシェ906に迫る高橋国光選手のR380-II。ストレートでの速さと30度バンクでの安定性はポルシェが勝っていたが、それ以外の箇所ではR380-IIのほうが明らかに速かった。16週目には高橋国光選手は生沢の背後にピタリと付け、ヘッドランプを点滅させ生沢徹選手を威嚇する。

 高橋国光選手が生沢徹選手を下しトップに立つと思われた18周目、またもドラマが起きる。レースの神様は気まぐれだった。S字コーナーの入口で5速から3速にシフトダウンしようとした生沢徹選手がシフトミスを冒したのだ。誤って1速に入れてしまい後輪がロックしてスピン。すぐ後ろにいた高橋国光選手も生沢徹選手のマシンを避けようとコース外に飛び出した。2台はエンジンが止まった状態でコース外のグリーンに止まった。ここで勝敗が決した。生沢徹選手のポルシェ906はすぐにエンジンを再始動させレースに復帰する。しかし高橋国光選手のR380-IIはエンジン再始動に40秒も費やしてしまった。2台の差は大きく開き、もはや追い上げ不可能だった。実は前年のレースでもR380はピットアウト時のエンジン始動に手間取るトラブルに見舞われていた。1967年はその悪夢がトップ争いで再現されてしまったのである。

 結局レースは生沢徹選手のポルシェ906が総合優勝、高橋国光選手の日産R380-IIは50周目に砂子義一選手を抜いて2位に上がり、51周目には生沢徹選手も抜いて同一周回に持ち込むが、挽回はそこまで。総合2位でレースを終える。マシンのポテンシャルはほぼ同一。ドライバーのテクニックも拮抗していた。高橋国光選手と日産R380-IIのコンビは優勝に最も近い位置にいた。しかし結果は残せなかった。第4回日本GPは、日産にとってレースの厳しさを改めて思い知らされた1戦だった。