M1 【1978,1979,1980,1981,1982】

“M”の名を最初に冠した孤高のスーパースポーツ

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メイクス・チャンピオンシップを制するために--

 BMWは1972年にモータースポーツ部門の開発・生産・運営を専門に担う子会社、「BMWモータースポーツ」(1993年には社名を「BMW M」に改称)を発足させる。フォーミュラやツーリングカーなどのレースにおいて、よりコンペティティブなマシンを効率的に研究開発し、勝つためのさらなる万全な体制を整える目的で、レース部門の独立会社を設けたのだ。

 BMWモータースポーツが最初の成果は、ヨーロッパF2選手権とヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)への本格参戦だった。F2ではエンジン・サプライヤーとしてM12/6ユニットを開発し、これをマーチ製シャシーに積んでドライブしたジャン=ピエール・ジャリエ選手が1973年シーズンのチャンピオンに輝く。その後、M12/6エンジンを市販化したことで、1970年代後半はBMW製エンジン車のF2マシンがサーキットを席巻することとなった。

ツーリングカーについては、ドイツ・フォードの監督を務めていたヨッヘン・ニーアパッシュを引き抜くなどして体制を強化。使用マシンは新たに3.0CSLを開発し、1973年と1974年シーズンで年間チャンピオンを獲得した。
 1974年シーズンをもってETCのワークス活動を休止していたBMWモータースポーツ。しかし、1976年になると新たな行動に打って出る。FIAが定めるグループ5規定のマシンで行われる世界選手権のメイクス・チャンピオンシップへの本格参戦(同時にグループ4マシンによる参戦)を決定し、新規に専用スーパースポーツの製作と、そのベースモデルの市販を決定したのだ。スーパースポーツの開発コードは“E26”と名づけられた。

ランボルギーニとタッグを組んで開発スタート

 BMWモータースポーツはスーパースポーツの車両レイアウトとして、戦闘力の高いミッドシップ方式の採用を決断する。しかし、社内ではこの分野のノウハウを持ち合わせていなかった。できるだけ早く、しかもスムーズにE26プロジェクトを進めるには--。BMWモータースポーツが選んだのは、ミッドシップスポーツカーの開発において優れた能力をもつイタリアの自動車メーカー、ランボルギーニとの提携だった。

 当時のランボルギーニは1973年に発生したオイルショックの影響を受け、経営状態は逼迫。設計部門や生産ラインは半ば開店休業の状態に陥っていた。せっかくの高い技術力を持て余していたのだ。新規のミッドシップ・スーパースポーツの設計も、グループ5&グループ4マシンのベースとなる年間400台以上の市販モデルの生産も、ランボルギーニなら出来る--BMWモータースポーツにはそんな考えがあった。

 BMWモータースポーツとランボルギーニによる共同プロジェクトは、当初順調なスケジュール進行を見せる。シャシー設計についてはランボルギーニと関係の深いジャンパオロ・ダラーラが担当し、角型鋼管スペースフレームに前後不等長ダブルウィシュボーンサスペンションをセットする。伝統のビッグシックスをベースとする専用6気筒エンジンを縦置きでミッドシップ搭載するというBMWモータースポーツ側の要件に対応し、ホイールベースはこの種のミッドシップスポーツとしては長めの2560mmに設定した。架装するボディについては、デザインと製作ともにジョルジエット・ジウジアーロ率いるイタル・デザインに任される。ジウジアーロは1972年発表のコンセプトカー「BMWターボ」のイメージを取り入れ、ミッドシップカーならではのシャープで流麗なフォルムや空力特性に優れるフラットな面構成などでスタイリングを構築した。ボディパネルの素材には軽量化や生産性を考慮してFRP材を採用。空気抵抗係数(Cd値)は0.384と優秀な数値を達成した。

珠玉の6気筒DOHC24Vユニットを搭載

 パワートレインに関しては、BMWモータースポーツが開発を手がける。搭載エンジンは実績のある3.0CSLと同様、量産型の“ビッグシックス”直列6気筒ユニットのブロックをベースにチェーン駆動の4バルブDOHCヘッドを組み込む手法を採用する。燃焼室はクロスフローを形成。ボア×ストロークは93.4×84.0mmのオーバースクエアとし、排気量は3453ccに設定した。型式はM88。エンジン高の抑制とレース走行時の極端な重力変化に対処するために、オイル潤滑機構にはドライサンプ方式を導入。さらに、点火機構にはマレリ製のデジタルイグニッションを、燃料供給装置にはクーゲルフィッシャー製の機械式フューエルインジェクションをセットした。

 組み合わせるトランスミッションは専用セッティングのZF製5速MTで、ロック率40%のLSDを介して後輪を駆動する。また、操舵機構にはラック&ピニオン式を、制動機構には4輪ベンチレーテッドディスク(前対向4ピストン/後対向2ピストン)を採用した。路面との接点となるタイヤは前205/55VR16、後225/50VR16サイズを装着。トレッドは前1550/後1576mmに仕立てた。

計画の遅れ……ランボルギーニとの提携を解消

 初期段階のE26プロジェクトは順調に推移し、1977年夏には試作車も完成する。この流れを見たBMWモータースポーツは当初の予定通り、1978年春に開催されるジュネーブ・ショーで完成車を披露する計画を立てた。しかし、結局ショーにはE26は出品されなかった。ランボルギーニの作業が遅々として進まなかったのである。また、どうにか完成したプロトタイプも、BMWモータースポーツが求めるクオリティには達していなかった。業を煮やしたBMW本体は、プロジェクトを推進するためにランボルギーニの買収を目論むものの、ランボルギーニの下請け企業がこれに強く反発した。結果としてBMWは、1978年4月にランボルギーニとの提携を解消することとした。

 暗礁に乗り上げたE26プロジェクト。しかし、ここでBMWモータースポーツはあきらめなかった。生産工程を変えて、何とかE26を完成させようとしたのだ。FRP製ボディはスタイリングを手がけた伊トリノのイタル・デザインが製作。一方、シャシーについては2002カブリオレなどの生産で提携の実績がある独シュツットガルトのバウア社に製造を委託する。そして、最終の仕上げを独ミュンヘンのBMWモータースポーツが行うという、複雑だが致し方ない手法をとった。

1978年パリ・サロン、市販モデルが登場

 苦労を重ねて完成したE26は、BMW Motorsportの“M”を意味する「M1」の車名を冠して、1978年秋開催のパリ・サロンにしてワールドプレミアを飾る。BMW初の本格的なミッドシップスポーツで、しかもイタル・デザインとダラーラ、そしてBMWモータースポーツという各分野のスター企業がタッグを組んだモデルだけに、M1はたちまちショーの花形となった。

 市販ロードバージョンのM1は、この種のスーパースポーツカーとしては異例の実用性を備えていた。エアコンやパワーウィンドウといった快適アイテムも標準装備する。M88エンジンの最高出力はロードバージョンが圧縮比9.0によって277hp/6500rpmを発生。また、レース用のグループ4仕様は11.5のハイコンプレッションから470hp/9000rpmを絞り出す。グループ5仕様は排気量を3153ccとしたうえでKKKターボチャージャーを組み合わせた結果、最高で850hp/9000rpmを発揮した。最高速度はロードバージョンが262km/h、グループ4仕様が310km/h、グループ5仕様が360km/hと公表された。

M1によるワンメイクレースを企画

 紆余曲折の末、市場に送り出されたM1。しかし、販売台数は伸び悩んだ。前述の複雑な生産工程は割高な車両価格(ポルシェ911の倍近い11万3000マルク)につながり、しかも生産はBMWモータースポーツ本体がF1用エンジンの新規開発と製造に追われていたために月3台ほどがやっと。このままでは、グループ4マシンの規定である「ベースとなる市販モデルを連続12カ月に400台の生産」という規定をクリアすることは困難だった。打開策としてBMWモータースポーツは、シャシー製造を担っていたバウア社に最終工程の一部も委託する。また、M1のハイパフォーマンスを証明するため、ワンメイクの「プロカー・レース」を開催することとした。このレースは、市場での人気の引き上げも意図していた。

 グループ4規定に準拠してセッティングされたM1プロカーは、新設計のカムシャフトに鍛造ピストン、専用のエグゾーストシステム、ロック率70~90%のLSD、ユニバーサルジョイントのラバーブッシュ、強化タイプのダンパー&スプリング、ギア比をクイック化したステアリング機構、ワイド化したタイヤ+ホイールなどが組み込まれる。競技自体はF1のサポートレースとして開催され、1979年と1980年にシリーズ戦を敢行。ドライバーは当時のF1パイロットらが中心となって参戦し、1979年シーズンにはニキ・ラウダ選手が、1980年シーズンにはネルソン・ピケ選手が年間チャンピオンに輝いた。

 プロカー・レースに力を入れる一方、BMWモータースポーツはM1を駆って1979年開催のル・マン24時間レースのIMSAクラスにエントリーする。使用マシンはポップアート界の巨匠、アンディ・ウォーホルがペイントしたBMWアートカー仕様のM1で、結果は総合6位と健闘した。

僅か4年間で生産を終了。悲運のスーパースポーツ

 M1の生産台数は1980年暮れにどうにか400台をクリアする。本来は規定を満たすものではなかったが、モータースポーツにおけるプロカー・レースでの貢献なども考慮して、FIAは特別に1981年以降のグループ4レギュレーションをM1に与えた。その後のM1は、世界各地のレースやラリーに参戦。日本でもスピードスター・チームがレーシング仕様のM1を購入して耐久レースなどに出場し、その後オートビューレック・チームに移籍してスーパーシルエット・シリーズを制覇するなどの大活躍を果たした。

 ようやく本格的なレース活動を行えるようになったM1。しかし、時のモータースポーツ界の環境がそれを拒んだ。レースの主役が、グループCマシンに移行しようとしていたのだ。また、BMWモータースポーツ本体も軌道に乗ったF1用エンジンの進化と製造に忙殺された。最終的にBMWモータースポーツは、1981年にM1の製造中止を決定する。本来のポテンシャルを誇示することなく、表舞台から姿を消した悲運のBMWスーパースポーツ--。4年間のモデルライフにおける生産台数は、453台(一説には447台)だった。