1300クーペ 【1970,1971,1972,1973,1974】

非凡な高性能を備えた2ドア空冷スペシャルティ

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オープンスポーツカーS500で4輪市場に参入し、
軽自動車N360でクラスのリーダーになったホンダ。
小型車マーケットへの本格進出となった
1300シリーズのクーペ版は、
高性能な二重空冷ユニットを搭載。
スタイリッシュな造形で
ポテンシャルの高さをアピールした。
本田宗一郎の意思を具現化

 1962年の全日本自動車ショー(東京モーターショー)で、2人乗りスポーツカー、「S360/S500」を発表し、本格的な4輪乗用車生産へ進出したモーターサイクルメーカーであったホンダは、後発となっただけに、それまでのセオリーにはとらわれない、独自の製品開発を行い、次々とユニークなモデルを登場させることになった。それは、とりもなおさず、創業者であり、きわめて優れたな技術者であった本田宗一郎の個性でもあった。ホンダという自動車メーカーとその製品であるホンダの名を持つクルマを語るとき、本田宗一郎の持っていた「類まれな開発者スピリット」と「強烈な個性」を抜きにはできない。

 第二次世界大戦が日本の敗戦で終結したとき、日本の工業は壊滅的な状況にあった。そうした中で、本田宗一郎は、生まれ故郷の静岡県浜松市に、本田技術研究所を設立する。機械技術の開発とその生産を目的としていたのだが、第一の目的は当時の日本でようやく普及しつつあった自転車に取り付けることの出来る小排気量の補助エンジンの生産だった。

その自転車用補助エンジン開発のきっかけが、宗一郎の妻が、買い物に行くときに使っていた自転車を何とか楽に走らせてやりたいということだったのは良く知られたエピソードである。宗一郎は、旧・日本陸軍の発電機用小型2サイクル・エンジンに独自の改良を加えて排気量50㏄の自転車用補助エンジン「ホンダ・モーターA型」を完成させた。研究開発に使ったプロトタイプの燃料タンクは、家の物置に転がっていたブリキ製の湯たんぽだったと言う。

世界で立証したテクノロジー

 自転車用補助エンジンは、復興期にあった日本の社会では大ヒット商品となり、本田技術研究所の経営は軌道に乗る。やがて、モーターサイクルの生産を本格化させ、1959年には世界最高峰のモーターサイクル・レース、マン島TTレースへの出場を果たす。さらに、1962年には125㏄、250㏄、350㏄の3クラスでメーカー・チャンピオンを獲得する。もはや世界のホンダであった。

4輪自動車の分野では、軽自動車規格の「ホンダS360」は発売されなかったが、レーシング・モーターサイクルの技術を生かして開発された、水冷直列4気筒DOHCエンジンを搭載した「S500」は、小型スポーツカーとして日本国内よりも海外で高い評価を得た。1967年には軽自動車の「N360」を発売、FWD(前輪駆動方式)と高性能エンジンでたちまち人気車種となり、それまでシェアでトップだったスバル360を追い抜き、軽自動車の技術的なレベルを大きく引き上げることになった。モーターサイクルで世界の頂点に立ったホンダは、軽自動車の分野でもトップ・メーカーにのし上がったのである。次の目標は、小型乗用車の分野であった。

独創の空冷エンジンで小型車に挑戦

 1965年に小型商用車「L700」を発表してこの分野での足掛かりを掴んでいたホンダは、1969年5月に、空冷1300㏄エンジンを搭載した本格的な4ドア小型乗用車である「ホンダ77」、および高性能仕様であった「ホンダ99」を発売する。モーターサイクルの開発で培われた空冷方式に絶対の自信と信頼を置いていた本田宗一郎は、この「77」と「99」にもDDAC(Duo Dina Air Cooling)方式と呼ばれる独特の空冷方式を採用する。2重強制空冷と言うべきその方式は、世界で初めてのユニークなものとなっていた。

1964年シーズンからホンダはF1への本格参戦を果たし、1965年のメキシコGPではリッチー・ギンサーが優勝、さらに1967年のイタリアGPではジョン・サーティースが優勝する。本格的な小型乗用車の販売をバックアップするために、ホンダは新開発のF1マシン( RA302)にも空冷方式を採用したほどだった。

エンジン性能にマッチしたクーペ誕生

 予想を裏切り「ホンダ77/99」は、マーケット的には決して成功作とはならなかった。小型乗用車では後発となったことも大きく影響していたのだが、エンジン性能とシャシーやサスペンション性能のアンバランスであることが主な理由であった。標準型の「77」でも、空冷直列4気筒SOHC、排気量1298㏄エンジンは最高出力100ps/7200rpmを発揮、スポーツ仕様の「99」ではなんと115ps/7500rpmに達していた。パワーのみで言えば、優に当時の2000㏄クラスに匹敵する性能である。

最高速度や加速性能はたしかに群を抜くものではあったが、それに引き換え、ボディの剛性やサスペンション、ブレーキ性能は、エンジン性能にマッチしたものではなかったのである。1970年2月には、パーソナルカーの流行に合わせ、2ドア・クーペ仕様の「ホンダ 1300クーペ」シリーズが登場した。ボディ構造からサスペンション、ブレーキなどに徹底的な改良を加え、ようやく、エンジン性能にマッチしたクルマとなったのである。

クーペ9は4連キャブで110ps達成

モデル・バリエーションは、4ドア・セダンの場合と同様、標準型の「クーペ7」と高性能仕様の「クーペ9」があった。「クーペ7」では、最高出力95ps/7000rpmを発揮する空冷直列4気筒SOHCの1298㏄エンジンをフロントに横置きとし、4速M/Tを介して前輪を駆動する。「クーペ9」では、4連キャブレターと高圧縮比で110 ps /7300rpmにチューンアップ、最高速度185㎞/hを可能としていた。発表当初のセダン系よりもエンジン出力が下げられているのは、エンジン性能とシャシー性能とのバランスをより良くするための方法だったのだ。それでも、当時のわずか1300㏄クラスの乗用車としては、破格の高性能だったことは間違いない。

 4シーター構成となる2ドア・クーペのスタイリングは、1962年にイタリアン・カロッツェリアのベルトーネが発表した「フェラーリ250GT」辺りに影響されたと思われる丸型4灯式ヘッドライトを備えた2分割式のグリルや流れるようなセミ・ファストバックのリア・スタイルなどを特徴としており、美しいスタイルは、当時の国産車としては抜きん出たものだった。

マイルドに変身・熟成

 最初のクーペが登場してわずか1年後の1971年秋にはマイナー・チェンジを受ける。従来の「クーペ7」に当たる「ゴールデン・シリーズ」と「クーペ9」に相当する「ダイナミック・シリーズ」に発展した。最もパワフルな110 psエンジンは、「ダイナミック・シリーズ」のGTL仕様専用となり、他は95 psエンジンが組み合わされた。すでに、時代はクルマに絶対的な高性能よりも、居住性の良さや実用性の高さを要求するようになっていたのである。

さまざまな理由が重なり、爆発的な人気を獲得するには至らなかったと言える「1300シリーズ」とその発展型のクーペだったが、1973年にはセダン系、クーペ系ともにDDAC方式の空冷エンジンを中止して、排気量1433㏄の水冷4気筒SOHCエンジンを搭載「145シリーズ」となった。「145クーペ」の生産は1974年11月まで続いた。

COLUMN
数々の新技術を投入!クーペの足回りは優秀
(本文) 1300シリーズの開発で、ホンダは、178件におよぶ特許や実用新案を申請した。特殊な空冷方式によるエンジン、ドライサンプ式潤滑方式、車室導入空気の清浄化対策などが、その一例だ。様々な新技術で性能に磨きをかけた1300シリーズは、リアサスペンションも革新的なシステムを持っていた。長いロアアームが中央で交差する構造のクロスビーム式サスペンションである。ロアアーム長を大きくすることで十分なストロークを実現し、高いロードホールディング性能をもたらす意欲的なシステムだった。なかでも各部を固め、重心高を低くしたクーペのフットワークと安定性はセダンと比べ数段高く、独創の高回転・高出力のエンジン性能に見合ったものに熟成されていた。しかし現実は厳しかった。セダンで一度ついた「足回りが弱い」というイメージはなかなか払拭できず、これが販売成績に影響を及ぼしたことは否定できない。