グロリア(総論) 【1967,1968,1969,1970,1971】

プリンスが培った技術力を備えた秀作

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新世代グロリアの開発を進めていたプリンスの開発陣。
プリンスの名に恥じない高級サルーンを目指していた。
しかし、1966年に日産との合併が現実のものに。
1959年の初代から数え3代目となった
グロリア(A30型)は、日産の名を冠し登場することになる。
初代は3ナンバー大型車として産声

 1956年4月の第3回全日本自動車ショウ(東京モーターショー)に、当時トヨタ、日産に続く第三のメーカーであったプリンス自動車は「BNSJ」と呼ばれる直列4気筒1.9Lエンジンを搭載した大型乗用車のコンセプトモデルを展示した。そのころの日本でのモータリゼーションは、三輪トラックやモーターサイクル、あるいは自転車に小型エンジンを取り付けた軽便なモーターバイクなどが主流だったから、その大型乗用車はかなり場違いな感じはあった。

この大型乗用車はすぐに市販化されることはなかったが、1959年1月から初代「スカイライン」のシャシーとボディーに、「BNS-J」に搭載されていた1.9Lの直列4気筒エンジンを組み合わせた4ドアセダンを、「グロリア」の名で売り出した。国産車としては初めてとなる3ナンバー規格の大型乗用車だ。また、「グロリア(Gloria)」の車名は、皇太子殿下(平成天皇)のご成婚を記念したものだと言う。

ニッサンとの合併を模索し始める

「グロリア」は、決して量販車種となるような性質のクルマではなく、いわば、プリンス自動車のイメージリーダーとして位置付けられたモデルであった。平均的なサラリーマンの月給が数万円のレベルにあった時代に、147万円の価格はとても一般庶民にははるかに手の届かない存在だった。今で言えば、マイバッハかロールス・ロイスに乗るほどの意味があったのだ。

続いて、1962年には2代目の「グロリア(S41系)」がデビューする。世界的な流行だったフラットデッキのスタイリングや後輪懸架にドディオン式を採用するなど、技術的にも世界レベルに達していた。さらに、1966年には、天皇や皇族方の専用車(御料車という)として「プリンス・ロイヤル」の開発も行っている。

しかし、プリンス自動車の高級大型セダン開発への方向性は、歴史的には間違いではなかったが、当時の日本ではいささか時期尚早だった。メーカー自体の規模が決して大きくなかったこともあり、プリンス自動車は安価な小型ファミリーカーの開発が後手に回ってしまう結果となった。メーカーにとっては、量産効果の大きい小型ファミリーカーは、資金を得るためのドル箱となるべきものだったのだ。その開発に遅れを取ったことで、プリンス自動車のメーカーとしてのシェアは徐々に減り始める。プリンス自動車は生き残る方法を模索、やがて1966年8月に日産自動車との合併を果たすことになる。

フォーマルな装いで3代目デビュー

 日産とプリンス両社が合併するかなり以前から、3代目となる新しい「グロリア」の開発は進められており、合併後最初にモデルチェンジされたのが「グロリア」であった。1967年4月に発表された「日産グロリア(A30系)」がそれで、旧型(S40系)で採用された後輪のドディオンアクスルはリーフスプリングで吊ったリジッドアクスルとされていた。

スタイリングは、御料車「プリンス・ロイヤル」のイメージを想わせるもので、直線的なラインを基調としたフォーマル感あふれるものだった。最大の特徴は、上下4灯式のヘッドライトと同じく上下に2分割されたラジエターグリルだ。日産には同級車種として「セドリック」があったのだが、プリンス系の販売店向けとして「グロリア」の存在を認めたというわけだ。その影響もあり、「グロリア」は「セドリック」との部品の共通化が強く推し進められていくことになった。

セドリックとパーツの共用が進む

 1969年10月からは、プリンスのオリジナルであったG7型エンジンが消滅して、日産のL20型エンジンが搭載される。そのほか細部に渉る部品の共通化率は、全体の30%以上に達したという。1970年10月に「A30系グロリア」にとっては最後となるマイナーチェンジが施される。

その際、最上級車種としてモデルレンジに加えられたのが、「グロリアGL」である。装備面では油圧式パワーステアリング、電動パワーウィンドウ、間欠式ワイパーなどを標準装備とし、メカニズムでは電子制御式オルタネーター(交流発電機)、コラプシブルステアリングコラムを採用していた。また、オートマチックのトランスミッションは、すでに1968年に、日産製の3速フルオートマチックトランスミッションに切り替わっている。

セドリックと車体を共用する兄弟車に

 プリンス自動車にとっては最後のオリジナルモデルであった「グロリア」も、日産自動車との合併により極端な合理化を迫られた。それは、同じクラスの「日産セドリック」との車種統合であった。ちょうど1971年2月のフルモデルチェンジに伴い、「グロリア」は事実上「セドリック」とシャシーやボディーを共用する双子車とされる。基本的には両車はまったく同一のモデルで、外見上ではラジエターグリルやホイールキャップの意匠、ボディーカラーのラインアップ、あるいは各部に付けられるオーナメントの類が違っていただけであった。

1970年代はじめの時代での国産2Lクラスの高級車市場では、トヨタの「クラウン」が、シェア60%とダントツの販売台数だったから、第二位の「セドリック/グロリア」連合軍にとっては、何らかの魅力あるモデル展開が必要だった。そこで登場したのが、日産系の高級車では初めてとなる、ハードトップ仕様車であった。通常、ドアピラーで仕切られるサイドウィンドウを、ガラスの擦り合わせのみでピラーを廃し、広々とした視界を得ようというものだ。

アメリカ車には1950年代から存在した形式だが、「セドリック/グロリア」には初めて登場したボディー形式となった。日本の高級車にも、いよいよパーソナルカーとして使うことのできる車種が登場したわけである。モデルバリエーションは、「グロリア」も「セドリック」もほぼ共通したもので、セダン系で5車種、ハードトップ系で4車種が揃えられた。

プリンスのスポーティイメージ

 セドリックと比較すると「グロリア」系はどちらかと言えば、よりスポーティーな位置づけと考えられていた。これは、旧プリンスの時代から受け継がれた、モータースポーツでの「スカイライン」の活躍とも無縁ではなかったはずだ。快適装備を中心として、インテリア、エクステリアのアクセサリーは多様をきわめていく。

バックミラーは未だフェンダーミラーだったが、リモートコントロールが可能となり、ラジオにはFMバンドが加えられた。そのほか、計器版の照明をコントロールするレオスタット、リアウィンドウ用デフロスターなどが装備可能となり、ハードトップモデルにはエンジン回転計も装備されていた。価格はもっとも豪華な「グロリア ハードトップGX」では138万円。オートマチックトランスミッションは7万5000円のオプション装備となっていた。

COLUMN
マイチェンで日産製ATと日産製6気筒ユニットを搭載
グロリアは、デビューから1年あまりの1968年秋に、最初のマイナーチェンジを受ける。その際、日産製オートマの採用が行われた。前進3速のフルオートマチックで、それまでのBW製のオートマチックに比較して、変速ショックの少ないスムーズな加速を実現。合併が、いい形で商品に反映されたと言える。そして、1969年10月の2度目のマイチェンの際、先代モデルから受け継いだプリンス設計の6気筒ユニット(G7型)は、日産製のL20型に換装されることになる。1970年10月に、最上級グレードとしてGLが発売となるが、このGLから4カ月後の1971年2月、グロリアは、セドリックとボディーを共用する230型へと移行した。