バイオレット 【1973,1974,1975,1976,1977】
名車“ブル510”の血統を受け継いだ主力モデル
1970年代初頭の日産自動車は、車種ラインアップの拡充に積極的だった。1970年9月には同社初のフロントエンジン・フロントドライブ(FF)を採用するE10型系チェリーがデビュー。1971年4月にはサニーの上級仕様としてエクセレント・シリーズを追加する。さらに、1971年8月にはワンランク上のブルーバードとなるUシリーズ(610型)を設定した。マイカーに対するユーザーニーズの多様化に加え、トヨタ自動車との販売競走が激化したことが、こうした戦略を採用した主要因といえるだろう。
拡大戦略の一方、車種ラインアップの中に狭間も散見されるようになる。最も問題となったのが、サニーとブルーバードUの間に位置する小型大衆車クラス。ブルーバードが従来の510型系から610型系の“U”に移行する際、ボディの拡大や内外装の上級化、そして中心価格帯の引き上げなどを実施したことから、サニーとの隙間が広がってしまったのだ。当面はブルーバード510型の継続販売で凌いでいたが、日産ユーザーのスムーズなステップアップを図るためにも、ここに新たな車種を設定する必要がある−−。そう考えた日産のスタッフは、1.4〜1.6Lクラスの新しい小型車の企画を鋭意、推し進めることとした。
シャシーコンポーネントに関しては、基本的にブルーバードの510および610型系から流用する。ホイールベースはサニーとブルーバードUの中間となる2450mmに設定。サスペンションはフロントにマクファーソンストラット式を、リアにベーシック向けのリーフスプリング式と上級仕様向けのセミトレーリング式の2タイプを採用した。
搭載エンジンについては、L16型1595cc直4OHCに電子制御燃料噴射装置を組み合わせた115ps仕様(L16E)とSUツインキャブレターを装着する105ps仕様、1キャブレターの100ps仕様、L14型1428cc直4OHCに1キャブレターの85ps仕様という計4機種を用意する。また、独自の大気汚染防止対策として、燃料蒸発ガス排出防止装置/負圧制御減速装置/温水加熱式吸気マニホールド/アイドルリミッター/ブローバイガス還元装置などを組み込んだ。組み合わせるミッションは4速MTがメインで、ほかにイージードライブ指向のニッサンマチック(3速AT)と上級仕様向けの5速MTをラインアップした。
ボディタイプについては、2/4ドアセダンとハードトップを設定する。いずれのボディも複雑な曲面とシャープなラインで構成したファストバックスタイルに仕立てた。また、ウエスト部に刻まれた“ストリームライン”や後ろ上がりのリアウィンドウ下端のラインなどでスポーティなイメージを演出する。とくにハードトップは、逆Rをつけたリアガラスを組み込んでルーフからリアピラー、トランクリッドへと流れるようなラインを創出した。内装に関しては、近代的かつスポーティなアレンジを実施し、サニーやブルーバードUとの差異化を図る。メーター基部は横長楕円形で構成し、シートにはセダンがヘッドレスト別体式を、ハードトップにはヘッドレスト一体式のハイバックシートを装着した。
サニーとブルーバードUのあいだを埋める小型大衆車は、「生活に密着した、人間の心に応えるクルマ」を標榜して1973年1月に市場デビューを果たす。車両型式は710とされ、ブルーバードU(610)に続くクルマであることを示していた。車名は“すみれ”を意味する「バイオレット」とされた。ちなみに、このネーミングにはすみれの花のように優しく、親しみやすいクルマという意味が込められていた。
バイオレットの車種展開は、4ドアセダンの1600SSS-E/1600SSS/1600GL/1600DX/1400GL/1400DX/1400STD、2ドアセダンの1400GL/1400DX/1400STD、そしてハードトップの1600SSS-E/1600SSS/1600GL/1400GL/1400DXという計15車型系をラインアップする。スポーツモデルのSSS系には、四輪独立懸架のH.S.S.(ハイスピードサスペンション)機構を採用。さらに5速MT搭載のSSS系には、ばね定数と減衰力をアップした強化サスペンションを組み込んでいた。
キャッチフレーズに“伝統のメカニズム”と冠し、イメージキャクターには当時『仮面ライダー』で一躍名を馳せていた藤岡弘(現・藤岡弘、)さんを起用した710型系のバイオレット。独創的でスポーティなスタイリングとブルバード510を発展させた走りのよさで勝負した同車だったが、しかし販売台数は伸び悩んだ。とくに主力の4ドアセダンの成績が悪かった。当時は小型大衆車といえば3BOXセダンのオーソドックスなスタイルが人気で、ファストバックはあまり受け入れられなかったのだ。また、バイオレットには510型系と同様にタクシー仕様が用意されたが、これも不人気。後方視界や後席の居住性の面でタクシー業界から敬遠され、最大のライバルだったコロナの販売台数に大きく水をあけられた。
この状況に対し、開発陣はボディの変更を企画する。1976年2月のマイナーチェンジでセダンのボディをファストバックからノッチバックに改め、後席のヘッドクリアランスやリアドア開口部を拡大させたのである。同時にCピラーが細くなったことで、ドライバーからの後方視界も改善された。マイナーチェンジの効果はすぐに表れ、とくに地方都市でのタクシー需要が大きく伸びる。ただし、トータルで見た販売成績は依然としてコロナには及ばなかった。
一方、ハードトップに関してはシリーズ全体を通して堅調な販売成績を記録する。とくに人気が高かったのはL16型系エンジンに四輪独立懸架の足回りを組み合わせたSSS系で、当時の日産スタッフによると、「510ブルの伝統を感じさせる卓越した走りやスポーティで精悍なスタイルなどが好評を博した」という。
オーソドックスを好むセダンユーザーと個性派指向のハードトップユーザーの狭間に揺れた710型系バイオレットは、1977年5月になるとフルモデルチェンジが実施され、2代目となるA10型系に移行する。その際にセダンのスタイリングは510風のボクシーなデザインに改められ、一方のハードトップはより個性的な2ドアハッチバッククーペの“オープンバック”に切り替わった。さらに、シャシーを共用化したスポーティモデルのオースター(当初の正式名称はバイオレット・オースター)が同時デビューし、その3カ月後には上級指向のスタンザも発売される。これ以後、バイオレット・ファミリーは日産の小型大衆車シリーズとして確固たる地位を築くこととなるのである。
日本での販売成績はそれほど奮わなかったバイオレットだが、日産自動車の歴史を語るうえでは決して欠かせない記念碑という一面も持つ。なぜなら、ラリーの世界で偉大なる業績を残したからだ。
510型ブルーバードの実質的な後継モデルとなる710型バイオレットは、さっそく510と同様にラリーのベース車として使われるようになる。国内で優秀な成績を残した後、1976年にはアクロポリスラリーに参戦して優勝。また、1977年のサザンクロスラリーなどでも勝利を飾る。1975年から1977年にかけては世界一過酷といわれるサファリラリーにも挑戦し、1975年が総合6位(Z・リムトゥーラ選手)、'76年が総合7位(H・カールストローム選手)、'77年が総合2位(R・アルトーネン選手)に入った。2代目のA10型系に移行すると、サファリの舞台で大記録を達成する。1978年は総合3位(R・アルトーネン選手)にとどまったものの、1979年から1982年にかけて、S・メッタ選手がドライブするA10型系バイオレットが4年連続の優勝を獲得したのだ。510ブルーバードSSSやフェアレディ240Z、そしてシルビア240RSでも果たせなかった偉業を、バイオレットは見事に成し遂げたのである。