ベレットGTR 【1969,1970,1971,1972,1973】

国産GTのパイオニア、その最速モデル

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1964年4月、いすゞは
国産初の本格的GT、ベレット1600GTを発売。
ハイポテンシャルな走りで、高い人気を博した。
その5年後、レース仕様である1600GTXの
市販バージョンとして1600GTRがデビュー。
“ベレG”のRは、速さと操縦性で再びマニアの羨望を集める。
日本GPを契機に続々と高性能車が登場

 1963年5月に、完成したばかりの三重県鈴鹿市にある鈴鹿サーキットで開催された第一回日本グランプリ自動車レースをきっかけとして、スポーツ/GTカーの大ブームが起こった。それは、翌1964年の第二回日本グランプリ自動車レースで、生澤徹選手の駆るプリンス・スカイラインGTと式場壮吉選手が乗るポルシェ904GTSがデッドヒートを演ずるに及んで頂点に達した。
 各自動車メーカーは、競って高性能車の開発を開始し、続々と新型スポーツカーやGTカーが登場した。1964年には、プリンス自動車が、第二回日本GPに出場するためのホモロゲーションを獲得するために、レース出場予定のモデルであるスカイラインGTを発売し、いすゞ自動車は、日本車としては初めて「GT」の名を持つベレットGTをシリーズに加えた。

「GT」はいうまでもなく、イタリア語のGlanturismo(グランツーリスモ)のイニシャルであり、高速性能と居住性に優れた長距離旅行向けの車種を意味する。さらに、1963年10月に小型車ではあったが、ホンダが本格的な2人乗りのスポーツカーであるS500を、翌1964年3月には排気量を拡大して性能を向上させたS600を発売、日野自動車もリアエンジンのコンテッサにクーペモデルを投入、パワーアップされたエンジンとフロントにディスクブレーキを装備するなどしてスポーツ性を高めていた。

積極的なスポーツモデル攻勢。日本のヴィンテージ期!?

 1965年になると、スポーツ熱はほとんど過熱状態となる。まず、4月にトヨタが、パブリカをベースとした2人乗りの小型スポーツカーのスポーツ800を発売。それを追うように、5月には日産がブルーバード(410型)に1600ccエンジンを搭載し、サスペンションを強化、フロアシフトとしたブルーバードSSSを発売した。SSSはスーパースポーツセダンのイニシャルで、日産独特の呼び方であった。この年の4月には、トヨタのトヨペット・コロナに2ドアハードトップが加えられ、これは後に1600GT(1967年8月発売)のベースとなった。10月にはトヨペット・クラウンにさえもエンジンをツインキャブレターとし、4速型トランスミッションのフロアシフトや、エンジン回転計を備えたクラウンS仕様が登場している。

 この種のスポーツ/GTカーの極めつけは、1967年5月にデビューしたトヨタ2000GTだったろう。生産中止となる1970年までの生産台数は377台に過ぎないが、日本のスポーツ/GTカーに与えた影響の大きさははかり知れないものがある。また、1969年に登場した日産フェアレディZとスカイライン2000GT-Rの存在も忘れてはならない。特にフェアレディZは、海外へも多く輸出され、英国のライトウェイトスポーツカーをことごとく葬り去ってしまう。

マニアを魅了した「ベレG」の発展

 こうした中で、国産GTのパイオニアであったいすゞ・ベレットは、一部に熱狂的なファンの存在はあったものの、エンジン排気量が1600ccクラスと、ひと回り小さかったこともあって、スカイラインGTやフェアレディZなどの直接的なライバルにはならなかった。それが結果的に独自の発展を促したのだろう。1966年12月には、バリエーションモデルのひとつとして、ボディ後部のデザインを変更してファストバックスタイルとしたべレット1600GTファストバックが登場する。基本的にはベレット1600GTと同一のスペックを持つものだが、生産は受注生産の形が採られた。価格も99万2000円と、標準型1600GTの93万円より十分高価だった。同じ時期にデビューした117クーペとは異なるものだが、スタイルのバランスの良さは随一だった。

レースから生まれた「GTR」の市販

 フェアレディZ、スカイラインGT-Rがデビューした1969年10月、ベレット1600GTRが登場する。このモデルは、同年8月10日に鈴鹿サーキットで行われた鈴鹿12時間耐久レースで、浅岡重輝選手と形山寛次選手のドライブで勝利を飾ったベレット1600GTXの市販型であった。1600GTXは、ジウジアーロのデザインで注目を集めた117クーペ用の直列4気筒DOHC、排気量1584ccのエンジンを搭載。120ps/6400rpmの最高出力と14.5kg-m/5000rpmの最大トルクを得ている。市販モデルのエンジンもレース用とほとんど変わりなく、190km/hの最高速度、0→400m加速16.6秒と、このクラスとしては抜群の高性能を誇った。1600GTRとしての特徴は、ボンネットの左右に熱気抜きのグリルが付けられ、エンジンフードと砲弾型フェンダーミラーのカバーはマットブラック仕上げとなった。フロントエンドではバンパーが2分割となって、一対のフォグライトが加えられた。

ドライバーが熱くなるインテリア

 インテリアはGTと基本的な変化はないが、前席シートはヘッドレストをシートバックと一体化したレザー張りのハイバックタイプのバケットシートになっている。速度計は220km/hスケール、エンジン回転計の数字は8000rpmまで刻まれており、このクルマの高速性能の高さを物語っている。価格は116万円と決して安価ではなかったが、クルマとしてのプレステージはきわめて高かった。
 だが、ベレット1600GTRが登場して間もなく、世界中は突然起こったオイルショックとセーフティヒステリーといえるほどの安全性意識の高まり、さらに排気ガス浄化規制強化の時代へと、好むと好まざるとに関わらず突入することになる。オーバーサイズのキャブレターを装備し、圧縮比を極限にまで高めて、小さな排気量から大馬力を生み出すという古典的なパワーアップの手法は、その限界を迎えつつあった。そのような時代に、高性能をウリに登場したベレット1600GTRは不幸といえば不幸な存在であったかもしれない。

 1973年に施行された48年排気ガス規制(昭和48年に施行されたことを意味する)によって、ツインキャブレターと高圧縮比による規制値クリアが困難となり、1969年のデビュー以来わずか4年でベレットGTRは生産中止となった。通常のGTシリーズは1970年11月にはエンジン排気量を1817ccへと拡大し、1800GTとなっていたが、こちらもGTRとともに73年に生産を中止している。GTRの生産台数はおよそ1500台であった。
 日本のスポーツ/GTカーのパイオニアであり、きわめて個性的な存在であったいすゞ・ベレットGTR。それは、フェアレディZやスカイラインGT-R、あるいはトヨタ2000GTなどよりも、はるかにマニアックなものだったのではあるまいか。それは同時に、われわれにとっても最も恵まれた時代であったのかもしれない。

COLUMN
レースでDOHCユニットを磨きあげる
 1960年代後半、いすゞは、ベレットGTで積極的に海外レース参戦を行い、1967年の全米選手権の第1戦、第2戦の連続優勝など、注目の成績を残している。国内では、DOHCユニットを搭載したベレット1600GTXが、1969年8月、鈴鹿12時間レースで、緒戦でありながら見事、総合優勝を果たす。同時にいすゞは、そのころ、ツインカムエンジンを搭載した本格的なレーシングカーを製作。R6を名乗るモデルで、69年の日本グランプリに出場。トラブル続出で期待した結果は得られなかったが、70年の第4回全日本鈴鹿500キロレースでは、総合2位の成績を収めた。そして、70年、それまでのクローズボディに変えて、R6スパイダーがデビュー。2戦目の日本オールスターレースでは、見事、総合優勝を果たした。その後も輝かしい成績を残し、いすゞは独自のツインカムエンジンの性能を多くのファンにアピールしていった。