コンテッサ900 【1961,1962,1963,1964】

ルノー4CVの経験を生かした日野オリジナル

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ルノーに学んだ日野の乗用車技術

 戦争中に主に軍用車の生産を行っていた日野重工業は、1948年に日野ヂーゼル工業へ社名を変更し、大型バスやトラックのメーカーとして再出発。1950年代に入ると小型乗用車への進出を企画する。乗用車の生産経験のない日野ヂーゼル(1959年に日野自動車工業に改名)が採用した生産技術の習得方法は、海外メーカーとの技術提携だった。

 1952年7月にフランスのルノー公団(当時)と製造・販売提携を結び、排気量748ccの直列4気筒エンジンをリアに置くルノー4CVの生産ライセンスを取得。日野ルノーとして、最初はノックダウン(部品を輸入して国内で組み立てる)方式で1953年に生産を始めた。1959年9月には完全な国産化を達成。生産車は右ハンドルなものの、各部はフランス本国仕様と同じだったため、最初期はサスペンションなどが当時の日本の悪路に対応できず、壊れやすいなどの欠点を露呈した。日野は独自に補強や改良を加え、日本の国情に適したモデルへと成長させて行く。

伯爵夫人という名の独自開発車の誕生

 自動車生産のための技術を習得した日野自動車工業では、ルノー公団との提携切れに伴い独自のモデルを開発する。その成果が1961年4月に発売した日野コンテッサだった。車名のコンテッサ(Contessa)とは、伯爵夫人を意味する英語。メカニズム的には日野ルノー4CVをベースとしていたが、スタイリングは全く新しい現代的なものとなっていた。このスタイリングには、イタリアのデザイナー、ジョバンニ・ミケロッティの強い影響が感じられる。

 コンテッサ900のホイールベースは、日野ルノー4CVより50mm長い2150mmに設定され、室内スペースの拡大が果たされていた。後車軸のさらに後方に縦置き搭載される直列4気筒OHVエンジンは新設計ユニット。排気量は893ccで、35ps/5000rpmを発生した。トランスミッションはコラムシフトの3速マニュアル型。後に電磁式クラッチ仕様をシンコー日野マチックの名でオプション設定する。

モータースポーツで活躍した栄光の血統!

 コンテッサはバレル式キャブレターなどで軽度にチューンアップしたスポーツグレード900Sも設定した。900Sは1963年の第一回日本GPに出場し、ツーリングカークラス(700〜1000cc)で優勝、国内スポーツカークラス(1300cc以下)では2位入賞を果たしたレース仕様がベースだった。

 日野では、日本GP優勝を記念してレース仕様車に改良を加えたモデルをコンテッサ900Sとして1963年11月に発売、さらにコンテッサ900は、ラジオやヒーターなどを備えて室内装備を豪華にしたデラックス仕様などモデルバリエーションを増やして行く。エンジンを強化した輸出モデルもあったという。

トリノショーでベールを脱いだもう1台の名車

 コンテッサ900には、イタリアの著名デザイナー、ジョバンニ・ミケロッティが手がけた流麗なクーペが存在した。1962年のトリノショーで初公開され、1963年の東京モーターショーに出品されたコンテッサ900スプリントである。コンテッサ900のシャシーにスタイリッシュな2+2クーペボディを架装したモデルで、伸びやかでシャープな造形で注目された。歴代日本車のなかで最も美しいクルマの1台である。ボディのスリーサイズは3830×1470×1200mm。ベースとなったセダン(同3795×1475×1415mm)と比較して215mmも低められた車高が印象的だった。

 900スプリントはエンジンもエンリコ・ナルディによってチューニングされており最高出力は50ps/5000rpm、フロアシフトの4速トランスミッションが組み合わされトップスピード140km/hをマークした。900スプリントの市販を望む声は高かったが残念ながら実現しなかった。しかしコンテッサ900の後継モデルとして1964年9月に登場したコンテッサ1300にはクーペが追って設定される。ちなみに現在900スプリントは、日野オートプラザ内に展示されている。