117クーペ 【1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981】

芸術的なスタイルのロングセラーモデル



ジウジアーロの手がけた芸術作品とも呼べる117クーペ。
美しいフォルムをそのままに、13年間に渡って生産。
当初は、手作りで、月に30台の少量生産。
172万円という価格も誰もが手の届く額ではなく、
多くの人にとって憧れの1台だった。
ジウジアーロ作品の中の傑作

 1952年に小型トラックシャシーを使って、英国風なスタイルのオープンボディを載せたダットサンDC-3や1957年にデビューした岡村製作所のミカサ スポーツなどを例外とすれば、1961年のダットサン フェアレディSP1500や1963年のホンダS500などで日本のスポーツカーはその重い扉を開いたと言っていい。続く1964年にトヨタ・スポーツ800が、1966年にトヨタ2000GTがデビューするに及んで、日本でのスポーツカーの流行はその頂点を迎えることになる。

 1963年にベレット1500を、それをベースとして大幅にチューンアップした88psエンジンで160km/hの最高速度が可能なベレットGT〈これが日本で最初にGTという名を持ったモデルである〉をデビューさせて、スポーツカー・メーカーの仲間入りを果たしたいすゞ自動車。1966年の東京モーターショーに「いすゞ117スポーツ」と名づけられたスポーツクーペのプロトタイプを展示して人々の注目を集めた。サルーンのフローリアンやベレット1600GTのコンポーネンツを利用し、フォルクスワーゲン カルマン・ギア・クーペ/コンバーチブルなどで知られる、イタリアのカロッツェリア・ギアでチーフデザイナーの地位にあった、ジョルジェット・ジウジアーロ〈Giorgetto Giugiaro〉のデザインによる美しいスタイリングは、例えは悪いが、まさに掃き溜めに舞い降りた鶴のようなものであった。当然、そのいすゞ117スポーツの市販化を望む声は高まりをみせることになる。いすゞはその後、市販化に向けた本格的な開発を開始し、2年後の1968年12月に「いすゞ117クーペ」として売り出した。

流麗なスタイリングで人気に

 117クーペは、ディメンション上でもベレットGTの派生モデルであったベレットGTファストバックよりも長く、幅広かったから、4人が乗るのには十分なスペースを確保できた。さらに、前席のフルリクライニング機構に加えて、後席もわずかだがリクライニングできることとトランクスルー機構が備わっていた。

 メカニズムは基本的にサルーンのフローリアンや、 ベレット1600GTをベースにしており、モノコックボディに4人乗り2ドアクーペのボディの組み合わせ。駆動方式はフロントエンジン、リアドライブで、サスペンション形式は前・ダブルウィッシュボーン/コイルスプリング、後・リーフ・リジッドの組み合わせであった。むろん、重量増加に備えて、ショックアブソーバーやスプリングレートは変更してある。エンジンはベレット1600GT用ユニットをツインカム化した強力仕様、水冷直列4気筒DOHC8バルブの排気量1584ccユニット。ソレックス型サイド・ドラフトキャブレター(N40PHH-3)2基と10.3の圧縮比から、120ps/6400rpmの最高出力と14.5kg-m/5000rpmの最大トルクを発揮していた。トランスミッションはフルシンクロ機構付きマニュアル4速。ブレーキはサーボ付きだが、前にディスク、後はドラムの組み合わせ。タイヤは6.45-14サイズ。最高速度は190から200km/h、0→400m加速16.8秒が可能と発表されていた。

先進のテクノロジーを注入し進化

 発売当初はボディの板金製作や装備は全て人手による作業で組み立てられたから、押しかける注文に応じ切れなかったという。当初月間の生産台数は30台前後であり、いすゞとしてもそれほどの高い人気を集めるとは予想していなかったのだろう。2年後の1970年のマイナーチェンジに伴って、大量生産方式を導入、生産台数は大きく向上することになる。

 流行に左右されない、スペシャルモデルとして登場した117クーペではあったが、当然ながら、流行などとは関係のない部分で、時間の経過とともに細部をアップデイト化する必要に迫られる。1969年に初めてマイナーチェンジが加えられ、乗り心地の向上や熱線入りリアウィンドウの採用、ヒーターの改良などが行われた。さらに翌1970年には、燃費の向上と排気ガス浄化のために、国産車としては初めての電子制御燃料噴射装置を備え、117クーペECとなった。同時に、先にベレット1800GTにも採用されていた1817ccエンジンを採用した117クーペ1800が登場した。1973年のマイナーチェンジでは、機械加工によるボディの組み立てが行われるようになり、同時に外観もテールライトの形状変更、フロントエンドの意匠変更などが行われた。エンジンはすべて1.8リッター仕様となった。1973年3月にはトランスミッションは5速M/Tか3速A/Tが選べるようになった。1977年からはヘッドライトが角型4灯式となり、1978年にエンジン排気量をリミットぎりぎりの1949ccとした。また、のちに2238ccのディーゼルエンジン搭載のモデルも加えられた。117クーペはこのまま1981年5月の生産終了を迎える。

COLUMN
ジウジアーロのデザインはイタリア人の手で再現
1968年12月に登場した117クーペは、徹底した商品管理のもとに、月産30台の少量生産を実施したスペシャルモデルだった。その最大の理由は、ボディの成型にこだわったからだといわれている。ジウジアーロのデザインを量産化するためには、相当に難しい成型・板金技術を必要とした。そのためにいすゞは、イタリアのカロッツェリアから職人を招聘する。かつてプリンス自動車などでも活躍したジョルジオ・サルジョットだ。サルジョットはいすゞの技術指導顧問としてボディ成型に辣腕を振るい、見事にジウジアーロの描いた曲線ボディを再現した。