トラック&バスの歴史02 【1935〜1962】

国産メーカーの発展と戦後の復興

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商工省と陸軍がメーカーを育成

 1935年の国産自動車の生産台数は5350台。内訳はダットサンを中心とする日産が5350台、自動車工業531台、東京瓦斯電気工業462台、京三製作所203台といったところで、豊田などはまだふた桁の生産台数に過ぎなかった。一方、米国勢を中心とした輸入車の組み立て台数は3万787台に上った。日本の自動車界は、やっとひとり歩きを始めた段階で、まだまだ脆弱だったのである。

 これに危機感を抱いたのが、商工省と陸軍だった。1936年5月には「自動車製造事業法」を制定する。これは日本の自動車産業を本格育成するための法律で、年産3000台以上を生産する場合は許可制とし、資本、役員、株主の過半数を日本人とすることなどが決められた。自動車製造事業法の許可会社になると5年間の免税、必要機械の輸入税免除などさまざまな恩恵が与えられた。同時に政府・軍部の命令に従うことも要求されたが、メーカーにとっては政府・軍部が大きな需要層となることも意味しており、好都合な面も多かった。

 最初に許可会社の認可を受けたのが豊田自動織機製作所と日産自動車だった。1937年には、東京自動車工業も認可を受ける。東京自動車工業は、自動車工業、東京瓦斯電気工業、協同自動車工業の3社が合併して設立した新会社だ。

標準型式モデルの誕生

 自動車メーカーの育成とともに積極的に実施されたのが、“標準型式自動車”の開発と生産である。これは商工省の主導で進められたもので、自動車メーカーと軍部などが参加してスタートした。標準型式化することで、輸入車以上の品質と性能を確保すると同時に量産効果による低価格を目指したのだ。

 その結果生まれたのが、エンジン排気量43900ccの中型貨物(トラック)と乗合自動車(バス)の標準型式車である。トラックはTX型、バスはBX型の呼称でそれに続く数字はホイールベース長を示していた。それぞれのメーカーは得意分野のパーツ製作を担当し、エンジンは石川島自動車、東京瓦斯電気工業は前後アクスル、ホイール、ブレーキなどを生産。フレームやステアリングは鉄道省が担当していた。当初は生産に関与した会社ごとにスミダ号、ちよだ号、ダット号と名称が異なっていたが、正式車名の公募が行われ、その結果、いすゞの名称に統一されることになった。ちなみにいすゞの名は伊勢神宮に流れる五十鈴川に由来している。

 標準型式車のレベルアップはその後も活発に行われ、1939年には軍用、1941年には商工省用の自動車用ディーゼルエンジン(空冷がいすゞ、水冷が池貝式)が決定する。その後、日本は太平洋戦争に本格参戦。各自動車メーカーは、トラックを中心に、各種の軍用車両の生産に忙殺されるようになる。

バスが庶民の足として活躍

 トラック&バスの戦後は、1945年9月、GHQが日産、豊田、ヂーゼル自動車(現いすゞ自動車)に月産1500台までのトラック製造を許可することからスタートした。1945年の自動車生産は1461台だったが、1946年には物資不足にも関わらず1万4921台に拡大した。内訳は大型トラックが1万4169台、小型トラック736台、バス7台であった。ちなみに1946年からは日野自動車もトレーラー型トラックを、ミンセイ(日産ディーゼルの前身)も6トン積みトラックの生産を開始する。

 混乱期の庶民の足を支えたのはバスだ。多くが戦前のシャシーにバスボディを架装したものだったが、1947年になると戦後モデルも誕生する。人気を集めたのがトレーラー型のバスだった。当時はなにより多くの人が乗れるキャパシティの大きさが求められたのだ。日野のT11B型ヘッドと組み合わせるT25型トレーラーバスの乗車定員は96名。全長は13.8mの超ロングサイズだった。

 1949年8月にはミンセイが国産初のリアエンジン・モノコック構造バスを発表。翌年には各部が完全な戦後設計となる定員66名のKB-B型バスもリリースされた。
 1951年になるといすゞのバス&トラックもヘッドランプをフェンダーにビルトインするなどのキャブ部分のレベルアップを実施。少数ながらタイなどへの正式輸出も開始した。日産も1952年に、スマートなスタイリングの380型トラックを発表するなど新世代化が進んだ。

自動車ショウの花形モデルは!?

 1954年のニュースは日比谷公園で開かれた「第1回全日本自動車ショウ」だ。各社の最新バス&トラックが展示され、50万人に上った見学者の注目を集めた。モータリーゼーション到来以前のこの時期、乗用車の出品は少なく、主役はバス&トラックだった。ふそう、日産、ミンセイ、いすゞ、日野、トヨタともに最新モデルを展示。消防車や大型ダンプなど特装モデルも話題となった。ちなみにショーには出品されなかったが、日本初のコンクリート・ミキサー車が発表されたのも1954年である。

 1950年代後半になると、バスはキャブオーバーデザインのリアまたはアンダーフロアエンジン式が目立つようになってくる。ボンネット型の人気も高かったが、フレーム高が低く、広い室内スペースを確保できるモダンなキャブオーバー型がしだいに街の景観になじむようになった。
 トラックのキャブオーバー型は日野が先鞭をつけた。1958年10月に登場した日本初の前2軸の10トン積みTC10型である。すでに小型トラックではキャブオーバー型が主流だったが、大型トラックでは少数派だった。荷室を最大の10トン積みとして積載量を増やしたいという顧客ニーズに応え誕生したモデルで、エンジンはバスと違いフロントに搭載していた。