名勝負 65船橋CCCレース 【1965】
伝説のバトル。浮谷東次郎を支えたスポーツ800
トヨタスポーツ800は、1965年4月に発売されたトヨタ初の本格2シータースポーツ。現在でも新鮮な魅力に溢れた傑作ライトウェイトモデルである。ベーシックカーのパブリカのメカニカルコンポーネンツを利用しながら、空気を優しくいなす空力フォルムと、徹底した軽量設計で卓越の走りを披露した。
トヨタスポーツ800の名を決定的にしたレースがあった。1965年7月18日に、今は無き船橋サーキットで開催された第1回全日本自動車クラブ選手権レース大会(CCCレース)である。その頃徐々に拡がりを見せていた自動車クラブの日本一を決めようと言う趣旨で開催されたイベントであり、その年は開催が見送られた日本グランプリに代わる大きなレースでもあった。船橋サーキットは、一周2.4㎞で、3個のヘアピンコーナーを持つテクニカル・サーキット。コースの設計者は「銀髪のオオカミ」と言われたイタリア人ドライバーのピエロ・タルフィだった。
このイベントの最終レースとなったGT―Ⅰクラスで、誰からも愛され、天才と呼ばれた若手ドライバーの浮谷東次郎が、ゼッケン20を付けたトヨタスポーツ800で出場する。予選は、生沢選手のホンダS600がトップ。2位は立原選手のアバルト、3位が田中選手のブルーバード。トヨタスポーツ800の浮谷は4位。午後4時、30周の決勝レースがスタートした。
スタート直後、生沢はアバルトにかわされる。浮谷は3位に浮上し、生沢を追った。5周目にひとつ目のドラマが起きる、生沢を追い上げた浮谷が、船橋サーキットの難所、「トイレ裏のカーブ」と呼ばれる17Rでイン側に入った。その瞬間、両車は接触。生沢は幸いにも走行に支障がなく、2位のままコースを進む。しかし浮谷は右フェンダーをつぶし24秒のピットイン。順位を最下位まで落とした。
ここから第2のドラマがスタート。浮谷を一躍有名にした「ごぼう抜き」が始まる。浮谷は7周目には12位、9周目には10位、12周目には8位に順位を上げる神がかりの快進撃。観衆は驚き、その姿に注目した。
17周目にそれまでトップを快走していたアバルトが、エンジントラブルでリタイア。生沢が首位に。浮谷のペースはさらにアップ。18周目には4位、19周目には3位、20周目には2位に上がる。そしてついに23周目に生沢を捉えトップに立った。その後も浮谷はペースを落とすことなくフィニッシュ。結果的に2位の生沢に19秒もの大差をつけていた。
浮谷がレース中にマークしたベストラップは1分35秒89。このタイムは浮谷自身が優勝したGT-Ⅱクラスのロータス・エラン(1.6ℓエンジン搭載)で叩き出した1分39秒30より4秒近くも速く、この日のレース最速記録だった。
浮谷のトヨタスポーツ800での走りは、マシンの軽量さを存分に生かしたもので、見る者に大きなインパクトを与えた。ちなみに表彰台での浮谷は裸足だった。観客は裸足でドライビングしたのかと勘違いしたが、裸足の理由は新品のレーシングシューズを雨で濡らすのが厭だったからというものだった。
浮谷が、全日本自動車クラブ選手権レースに、トヨタスポーツ800で出場したのは、スポーツ800の走りに惚れ込んでいたからだった。浮谷はトヨタスポーツ800のデビュー直後、市販状態そのままの姿で鈴鹿サーキットのテストを行った。自動車専門誌のレポーターとしてトヨタスポーツ800をドライブしたもので、そのベストラップは3分10秒0。このタイムは第2回日本グランプリで完全レース仕様のパブリカ700が記録した3分9秒2とほぼ同じ。素晴らしいタイムだった。
レポートのなかで浮谷は「580kgなら、2気筒OHVでもこんなに速いのか! わずか800ccとは思えない」とその速さを絶賛。トップスピードはメーター読みで165km/hに到達したという。エンジンの軽やかな吹き上がりにも感激したようで「レッドゾーンは5500rpmの設定だが、低いギアではあまりに楽々と5500rpmをふりきってしまう。6500rpm以上でもバルブサージングが起きないから、メーターを注視していないと回しすぎてしまう」とレポートしていた。
ちなみに浮谷はレースから1ヶ月後の8月20日に鈴鹿サーキットでの練習中(ホンダS600をドライブ)に事故死した。享年23歳。それは天才ドライバーのあまりに残念な訃報だった。
※文中敬称略