名勝負 70JAF GP 【1969】

真の勝者は1600GT! GT-Rを翻弄した若武者

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勝つことが当然のGT-R。1600GTはチャレンジャー

「きょう、注目のスカイライン、GPに初陣」、1969年5月3日の主要新聞に全紙大の広告が掲載された。それは初代スカイラインGT-Rが富士スピードウェイで開催されたJAF・GP・TSレースに出場することの告知だった。
 初代スカイラインGT-Rは、レーシングプロトR380用をデチューンした2ℓ直列6気筒DOHC24Vエンジンを搭載。最高出力160psを誇りトップスピードは200km/hを達成。レースに勝つことを目標に開発された生粋のサラブレッドだった。第2回日本GPでポルシェ904と戦い、見事に“スカイライン神話”を樹立したスカGの後継マシンとして、勝つことが宿命づけられていた。

 このスカイラインGT-Rを迎え撃つのがトヨタ1600GTだった。トヨタ1600GTは1967年8月にデビュー。当時のコロナ・ハードトップのボディに1.6ℓDOHCエンジン(110ps)を搭載したスポーツモデルである。優れた車両バランスでレースでも好成績を収めていた。しかし、スカイラインGT-Rと比較すると非力なのは明らか。誰もがGT-Rの優位を信じて疑わなかった。
 しかしレースとは筋書きのないドラマである。JAF・GPは歴史に残る戦いとなった。

予選はGT-Rが圧倒。レースは1600GTがダッシュ!

 1969年のJAF・GP・TSレースには、ドライバーの出場資格制限があった。過去のグランプリで実績のあるドライバーは出場できなかったのである。日産ファクトリーチームの有力ドライバーは、GT-Rのステアリングを握ることは許されなかった。そこで日産は、有力なプライベートドライバーを召集、連日の特訓を行い。ドライバーのレベルアップを図った。

 対してトヨタには、生きのいい若手ドライバーがひしめいていた。トヨタは高橋晴邦、舘信秀、中野雅晴、石井和雄の4選手に1600GTを託し、GT-Rの撃破を目指した。

 予選はGT-Rが速かった。1位が藤田選手、2位はレイガン選手、3位は長村選手のGT-Rが占め、1600GTは4位の高橋選手が最上位。
 スタートの合図とともに抜群のダッシュを見せたのは1600GT勢だった。4台の1600GTがGT-Rを抜いて富士名物の30度バンクを目指す。GT-Rはスピードの伸びを重視して5速MTのギア比をハイギアードにしていた。対して1600GTは、スタートダッシュを重視してギア比を低めに設定。その差が明暗を分けた。しかも、2分13秒4でポールポジションを獲得した藤田のGT-Rは、1600GTを追いつめながら。オープニングラップの最終コーナーで大スピン。GT-R勢の歩調は乱れに乱れた。追えども追えども1600GTを射程に捉えることは出来なかった。

負けられないGT-R。チームで1600GTを包囲

 日産は、負けるわけにはいかなかった。そこでチームプレーで1600GTに立ち向かう。周回遅れのGT-Rにトップを快走する高橋の1600GTを抑えさせ、一挙に後方から追い上げる篠原のGT-Rとの差を詰めるように画策したのだ。
 一方のトヨタは、ピットインを繰り返していた舘の1600GTを高橋の援護に回す。レースはメーカー同士の負けられない1戦となった。

 篠原のGT-Rが、ようやく舘を抜いたのはレース残り3周の時点。その後先行する高橋の1600GTを追う。高橋は2台のGT-Rに前方をブロックされ、ペースが上がらない。後方から篠原のGT-Rが急接近。勝負は最終ラップのストレートに走りに委ねられた。
 パワーにものをいわせ、篠原は高橋の1600GTに襲いかかる。しかし高橋は巧みにGT-Rをブロック。そのままGT-Rを抑え、チェッカーフラッグを受ける。

 レースは1600GTが、GT-Rに見事に勝利した。ところがレース後、最終ラップの高橋のブロックが篠原の走路妨害と判定され、優勝はGT-Rに覆る。からくも優勝も手に入れたGT-R。しかし、真の勝者は明らかに1600GTだった。高橋選手はその後、トヨタの中心ドライバーに成長。1973年の富士1000kmレースでは、セリカ・ターボを優勝へと導いた。
※文中敬称略