チェリーX-1R 【1973,1974】
俊敏な走りでマニアを魅了した本格FFスポーツ
マイカー元年といわれる1966年以降、トヨタ自動車のカローラと日産自動車のサニーは激烈なシェア争いを繰り広げていた。一方がエンジンのパワーアップを図れば、すぐさまもう一方がそれに対抗。室内の居住性を引き上げるために両車ともボディはしだいに大型化し、装備面でも上級化の一途をたどっていく。もちろんその影響は価格面に反映され、1960年代末にはカローラとサニーともにワンクラス上のクルマに変化していた。
カローラに対抗するためには、サニーの上級化はまだまだ続けていかなければならない−−。当初はサニーをエントリーカーとして位置づけていた日産は、この決定を下した時点で新たな小型車のラインアップを模索するようになる。新しいクルマを一から開発するか、既存のコンポーネントから作り直すか……。首脳陣が白羽の矢を立てたのは、1966年8月に日産と合併していたプリンス自動車工業の研究車だった。プリンス自工はスカイラインやグロリアなどに続くモデルとして、大衆車の研究・開発を手がけていた。広い居住空間が創出できるフロントエンジン・フロントドライブ(FF)の駆動レイアウトに注目し、その企画を推し進めていたのだ。日産の首脳陣は最終的に新しいエントリーカーを先進のFF方式にし、開発のメインを旧プリンス自工の技術陣に任せる方針を打ち出した。
一度はお蔵入りになりかけたFF方式の大衆車の開発ができるとあって、旧プリンス自工の技術陣は燃えた。もちろん、何から何まで新しいメカニズムで作れるわけではなかった。エンジンやシャシーの一部はコスト削減のためにFR方式のサニー用を使わなければならず、これをFF方式に転用するためには多くの困難が発生した。しかし技術陣はあきらめず、FFレイアウトや4輪独立懸架の足回りを懸命に構築していった。
シャシーについては既存のコンポーネントを流用しながら大幅な改良を施し、懸架機構には前マクファーソンストラット/コイル、後トレーリングアーム/コイルの“HSS(ハイスピードサスペンション)”を採用する。ホイールベースは2335mmに設定した。FF機構は、エンジンを横置き搭載し、その下にトランスミッションを設置するという二階建てのいわゆる“イシゴニス方式”を導入。エンジンルームがコンパクトに収められる、左右のドライブシャフトが等長になる、などのメリットを重視しての決断だった。エンジン自体は既存のA10型988cc直列4気筒OHVとA12型1171cc直列4気筒OHVをFF用に改良して搭載。A10ユニットはシングルキャブレターとの組み合わせで58ps、A12ユニットはツインキャブレターとの組み合わせで80psの最高出力を発生する。トランスミッションにはフロアシフトの4速MTとコラムシフトの3速MTを設定。操舵機構には応答性に優れるラック&ピニオン式を導入した。
ボディタイプは当初、トランクを持つ2ドアセダンと4ドアセダン、そして2ドア+リアゲートのバンを設定する。スタイリングは斬新で、アイラインウィンドウと呼ぶ切れ上がったリアサイドウィンドウと富士山の形を模したリアピラーを組み込むスポーティなセミファストバックのスタイルを採用。日産ではこれを“カプセルシェイプ”と呼称した。インテリアは、FFレイアウトを活かした広い居住空間や視認性および使い勝手を重視したインパネ、ヘッドレストを一体化したハイバックシートの採用などが訴求点。快適性を高める目的で、空調システムにも工夫を凝らしていた。
新世代の日産のエントリーカーは、日本人に最も愛される花=桜のように成長してほしいという意味を込めて「チェリー」(E10型)と名づけられ、1970年9月に発表、10月に発売される。車種展開はA12エンジンを搭載する高性能グレードのX-1を筆頭に、GL/デラックス/スタンダードを用意。車両価格は41.0〜57.0万円(東京標準価格)と、サニーよりもやや安い価格帯に設定した。ちなみに、チェリーは発表前にティーザーキャンペーンを大がかりに実施する。最初にE10の型式や覆面ボディの写真を発表。次にX-1のネーミング(発売時はグレード名)が明らかになり、1970年7月にはついにチェリーの車名が公表される。チェリーのデビューに合わせて新たなディーラー網の「日産チェリー店」も設立され、日本全国に新店舗が建てられた。
話題たっぷりで登場したチェリーだったが、販売成績はデビュー当初を除いてそれほど伸びなかった。開口部が狭いトランクやクセの強いFF特有の走り、冷却ファンの作動音の大きさ、そして先進的だが個性の強すぎるルックスなどがファミリーカーの顧客層にあまりウケなかったのだ。ただし、一部の走り好きには熱狂的に支持された。車重はX-1で655〜670kgと軽量。クセの強い走りには“乗りこなす”楽しさがあった。また、チェリーは整備性向上のためにファイナルギアにヘリカル式を採用していたが、この作動音が独特で、“魅惑のノイズ”として評判を呼んだ。
1971年9月になると、「知的な野獣と呼びたい、しなやかな力感」と謳った3ドアクーペが登場する。全高はセダンよりも65mmほど低くなり、一方で全長はリアボディの延長などで80mmほど伸びた。エクステリアは大きなリアゲートを備えた“プレーンバック”スタイルを基本に、新造形のアイラインリアサイドウィンドウとマッハラインと呼ぶレリーフラインを組み合わせ、スポーティかつオリジナリティあふれるクーペフォルムを創出する。
搭載エンジンは従来ユニットのほか、A12のシングルキャブレター仕様(68ps)を新設定。ボディ形状や車重などの変更に合わせて、4輪独立懸架のサスペンションには専用のセッティングを施す。また、レザートップやリアバイザーなどスポーティなオプションアイテムを数多くそろえた。
クーペモデルの設定は、チェリーのセールスに大きな効果をもたらした。若者層のユーザー比率がいっそう高まり、販売台数を底上げしたのである。
初代チェリーのレースデビューは、1971年10月に開催された「富士マスターズ250kmレース」のTSAクラスだった。1300cc以下で争われるこのクラスに、日産ワークスはA12エンジンをボアアップして排気量を1298ccとしたチェリーX-1で参戦。予選では長谷見昌弘選手の12号車がポールポジションを獲得し、2台のサニー1200を挟んで4位に黒沢元治選手の11号車、パブリカ1200をあいだに都平健二選手の10号車が6位につける。
雨中の決勝では長谷見選手がアクセルリンケージのトラブルで遅れるものの、黒沢選手と都平選手がFF車のトラクションのよさを活かして快走。黒沢、都平の順で見事にワンツー・フィニッシュを飾り、チェリーはデビューウィンを果たした。レース用チェリーのA12エンジンは当初の第1次仕様がソレックス40PHHキャブレターとの組み合わせで最高出力100psを発生。さらに、2次仕様ではルーカス燃料噴射を組み込んで150psを、3次仕様ではクロスフロー・ダブルイグニッションで160psを絞り出した。
また、チェリーでは日産チームの2軍的な存在の大森ワークス(1軍は追浜ワークス)に所属していた星野一義選手が積極参戦。他のドライバーがFF特有の挙動に苦心するなか、星野選手はタックインを巧みに使いながらドライブし、数々の勝利をあげる。やがて“チェリーの星野”として注目された星野選手は、レーススタッフから厚い信頼を獲得。F2やGC(グランドチャンピオン)レースにステップアップしていくこととなった。
チェリーのクーペモデルの人気は、1973年3月に発売されたスパルタン仕様によってさらなる高みに達する。“地を蹴る純血マシーン”を謳うクーペX-1Rが登場したのだ。クーペX-1をベースとしたボディには、FRP製の前後オーバーフェンダーを装着。全幅を拡大したうえで、タイヤには165/70HR13サイズを、ホイールには4.5J×13サイズを組み込む。4輪独立懸架のサスペンションはよりハードにセッティングし、フロント側にはスタビライザーを装備した。
パワートレインはX-1と基本的に共通で、ツインキャブ仕様のA12エンジン(80ps)に4速MTのトランスミッションを搭載。フロントブレーキには大径ディスクを採用。インテリアは、ラジオなどをオプション化するなど装備類を簡略化。内装カラーはグレーおよびブラックでシンプルに仕上げ、ステアリングには革巻風2本スポークタイプを、シートにはスポーツ形状のハイバックタイプを装着した。また、モータースポーツ用のオプションも積極的に開発。サーキットレースおよびラリーに向けたパワートレインや足回りなどの強化パーツを豊富にラインアップした。
X-1Rのデビューから7カ月ほどが経過した1973年10月になると、チェリー・シリーズ全体のマイナーチェンジが行われる。フロントグリルやバンパー、一部インテリア装備などを変更したほか、クーペモデルにシート/ドアトリム/フロアカーペットを上級化したヨーロピアンインテリア仕様を追加した。
X-1Rの登場、さらにはモータースポーツでの大活躍(とくに星野一義選手による激走)によって、若者層からの支持がいっそう高まったチェリー。ファミリーカーとしての人気は今ひとつだったが、 独創的なルックスやFF特有のクセのある走りなど、スポーティモデルとして評価が高かった。とくにX-1系グレードは、和製ミニ・クーパーと称されるほどの走りのホッテストモデルとして熱い支持を集めた。クルマ好きには特別なクルマである。