レーシングドライバー/高橋晴邦 【1946〜】
抜群のテクニックと冷静な判断力を持つクレバードライバー
圧倒的な速さを持つマシンを操り、万全のチーム体制で勝利を勝ち取るのがレーシングドライバーの理想像だとしたら、高橋晴邦選手はちょっと違う。類い希な素晴らしいドライビングテクニックの持ち主ではあったが、彼の真価は非力なマシンで、より上位のクルマに挑むときに発揮された。マシンのポテンシャルをフルに引き出すテクニックだけでなく、なによりクレバーなレースの組み立てが彼の持ち味だったのだ。がむしゃらに勝利に向かって突き進むのとはひと味違う、時々の状況に合わせ最善の戦い方ができる希有な存在だった。
高橋晴邦は、1946年12月6日、恵まれた家庭環境の元、東京は荻窪に生まれた。明治大学付属中学校から明治高等学校に進み、ストレートで法政大学工学部に進学している。クルマに興味を持ったのは大学進学後。愛車として親からフェアレディ1500を与えられたのがきっかけだった。フェアレディを手にした晴邦は、さっそく仲間とサーキット通いを開始。1966年4月に船橋サーキットで開催されたゴールデンビーチトロフィーレースの前座イベントでレースデビューを飾る。結果は見事に3位入賞だった。
ところがここで問題が生じる。晴邦のレース活動に両親からストップが掛かったのだ。現在以上に当時のレースはアクシデントが多く、危険なスポーツだった。晴邦の両親はそれを心配したのである。晴邦は両親の要望を聞き入れ、自身のレース活動を凍結する。もちろんレース活動を諦めたわけではない。晴邦は熱心に自身のレースへの情熱を両親に説明し続けた。その甲斐あって1年後、やっと“レース禁止令”が解除される。しかしそれには3つの条件があった。大学は4年間で卒業すること、やるからには日本一になること、30歳になったらレースから引退すること。当時からF1ドライバーを夢見ていた晴邦は、「もし30歳の時点でF1ドライバーまで上り詰めていたら、レース活動を継続する」ことを認めさせたうえで、レース活動を本格スタートさせた。
本格的にレース活動をスタートさせた晴邦選手は、非凡な速さでサーキットを席巻。1968年には全日本ドライバー選手権TIチャンピオンの座を獲得する。翌1969年3月には法政大学を無事に卒業。トヨタ自販とドライバー契約を結び、いよいよプロドライバーとして歩みはじめる。
晴邦選手の名声を決定づけたのは1969年5月のJAFグランプリ。スカイラインGT-Rのデビューレースとなった一戦である。日産はその日の朝刊各紙に「きょう注目のスカイライン、GPに初陣」という広告を掲載。事前に勝利を宣言した。レーシングプロトタイプR380の血を引く2Lエンジンを積むスカイラインGT-Rのライバルは、1.6Lエンジンのトヨタ1600GT。誰の目にもスカイラインGT-Rの優位は明らかだった。
しかしレースはまさに“筋書きのないドラマ”である。晴邦選手のドライブするトヨタ1600GTは、スカイラインGT-Rを終始圧倒。堂々のトップでチェッカーフラッグを受けたのだ。ただし晴邦選手はレース後、ファイナルラップのストレートでの行為(スリップストリームについたGT-Rを振り切ろうと左右に進路変更したこと)が走路妨害と認定されて1周減算。GT-Rに勝利を譲る。だがレースの真の勝者は誰が見ても晴邦選手だった。晴邦選手は、スタートダッシュとコーナリング性能に優れた1600GTの特質を見事に味方につけ、GT-Rを圧倒したのだ。晴邦選手の冷静な判断力の成果だった。
もうひとつの忘れられないレースが1973年7月。全日本富士1000kmレースでのセリカLBターボによる勝利である。セリカLBターボは300psを発生。ツーリングカーベースのマシンながら、ローラT280などのレーシングプロトを押さて総合優勝を飾る。レース本戦は激しい雨。多くのマシンが雨に翻弄されスピンやクラッシュするなか、高橋晴邦&見崎清志選手組みの1号車は終始冷静なドライビングで4周目からトップを快走。143周を走り切りトップでチェッカーを受けた。この富士1000kmレースでのセリカLBターボの勝利は、日本におけるターボ車の初勝利でもあった。晴邦選手は3年ごしでターボマシンの開発にも携わっていた。それだけにこの勝利は格別。激しい雨のなかでも全開をキープできたのは、自らが熟成したターボエンジンに全幅の信頼を置いていたからだった。
晴邦選手は、1974年にル・マン24時間レースと、全日本富士1000kmレースに出場後、事実上レースから引退する。自動車メーカーがモータースポーツの第一線から撤退するなか、プライベート体制では晴邦選手が望む世界進出は無理という判断が導き出した結論だった。レース引退後、晴邦はアメリカの大学院に留学。帰国後はビジネスシーンで辣腕をふるっている。