名勝負 1970第18回サファリ・ラリー 【1970】

ブルーバードが成し遂げた日本車初の完全優勝

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サファリ全タイトルを制覇!

 1970年3月30日、5日間に渡って激闘を繰り広げた第18回東アフリカ・サファリ・ラリーは終了した。総合優勝を飾ったのはブルーバードSSS。2&4&7位もブルーバードが占め、総合優勝とともに、クラス優勝(同時に1〜7位を独占)、及びチーム優勝も日産が勝ち取る完全勝利を成し遂げた瞬間だった。ブルーバードSSSの総合&クラス&チーム優勝という全タイトル制覇は、国産車としてラリー史上初の快挙だった。

 サファリ・ラリーは東アフリカのケニア、ウガンダ両国の約5000kmの悪路で行われる、別名“カーブレイクラリー”と呼ばれる世界で最も過酷な競技である。1970年の第18回大会は1日目から雨に見舞われ、前半コースがほぼ泥沼という悪条件だった。その厳しさは出走91台中、完走僅か19台という事実が示していた。

高い実力をプライバーターも評価

 日産はサファリ・ラリーにブルーバードを主力マシンとして1963年の第11回大会から参戦。当初は完走さえおぼつかなかったものの1966年の第14回大会で総合5&6位(クラス優勝)に入り、1969年には総合3位、クラス&チーム優勝を飾るなど着々とポテンシャルを上げていた。ブルーバードの速さとタフさはアフリカ現地でも非常に評価が高く、ワークスチームだけでなく現地のプライベーターも続々とブルーバードに乗り替えていた。

 1970年の第18回大会ではワークスチーム4台の他に、プライバーターのブルーバードが24台も出場。他に3台のサニーも加わり出場マシンの3分の1以上が日産車という状況だった。日産車が現地で人気が高かったのはフォードやプジョー、ポルシェなどのライバル各車と比較して、メーカーがチューンしたワークスマシンと市販車との差が少なかったからだ。日産はサファリ・ラリーなどのモータースポーツ参戦を、競技というよりテストの場と考えていた。そのため参戦マシンはあえて市販モデルを軽度にモデファイする程度に抑えていた。ラリー用にほぼゼロから作り上げたライバルたちとは考え方がまったく違っていたのだ。ブルーバードが強かったのは市販モデルの実力の高さの証明。プライベーターはそのことをきちんと認識していたのである。

ポルシェ911と一騎打ち!

 1970年のサファリ・ラリーはポルシェ911と最後まで闘っての勝利だった。4台のブルーバードで構成するワークスチームは1台をアクシデントで失ったものの、3台が序盤から好走。第2ステージ終了時点で2&3&6位に食い込んでいた。最大の強敵と思われたフォード・カプリは第2ステージで全車エンジントラブルによりリタイア。プジョーやボルボも苦戦していた。だがポルシェは絶好調だった。持ち前のスピードを生かし悪路をものともせず逃げ、トップをひた走っていた。

 勝利の女神がブルーバードに微笑んだのは後半戦の南回りコースだった。第3ステージ、ナイロビからの再スタート時にチーム監督の難波(豪州ラリーでダットサンをクラス優勝に導いた強者)は、ポルシェのエンジンから僅かだがオイルが漏れているのを見逃さなかった。彼はそれを見てふたつの作戦を敢行する。ひとつは偽りのサービス指令。取材記者が居る前であえて「ナイロビからのスタート直後にキャブレター調整のため5分間かけて車両整備をする」と指示をだした。海抜2800mを超える山岳地帯を控えているためキャブレターの調整は必須と思われたから、このウソ指令は見破られることなくライバルチームにも伝わった。ポルシェやプジョーなどは日産チームが車両整備で5分間タイムロスすると信じ自身も車両整備のためマシンを止めた。しかしブルーバード各車は車両整備をすることなく激走。トップのポルシェと15分以上あった差は次ぎのカンパラのタイムコントロールで一気に9分に縮まった。ウソ指令作戦が見事に的中したのだ。

優勝をもぎとったふたつめの秘策とは!?

 難波は次ぎの作戦指令をドライバーに出す。「トップのポルシェを追い抜いてはならない。ブルーバードどうしの追い抜きも禁止する。ただし2位と3位のブルーバードはポルシェを10m以内に追い上げろ」。ドライバーは当初、難波の真意を測りかねた。ポルシェを抜かなければ優勝できないからだ。しかし難波には勝算があった。

 追われるポルシェはブルーバードが迫っていることを熟知している。追われれば逃げたくなるのが道理。そうなればポルシェのドライバーは自制が利かずマシンに無理を強いることになる。そしてそれはポルシェの脱落を意味するのだ。カンパラをスタートしたポルシェはブルーバードが追いつくとぐんぐんとスピードを上げた。時速は130km/hオーバー。さらにスピードを上げ逃げるポルシェ。ブルーバードによるポルシェの追走は数10kmにも及んだ。と、突然ポルシェから白煙が上がった。無理を強いたポルシェのエンジンにオイルがなくなり焼き付いたのだ。“勝った!”この報告を聞いて難波は確信した。ブルーバードの勝利はクルマ自体の優秀性とともに難波の冷静な判断がもたらしたものだった。

 日産車はその後も1971年と1973年、さらに1979年から1982年まで4年連続サファリ・ラリー優勝という金字塔を打ち立てる。優勝が身近な存在になったのはブルーバードがその道筋を整備したからに他ならなかった。ブルーバードは優れたファミリーカーであると同時に優れたファイターであり、誇り高き勇者だった。