A50ケンブリッジサルーン 【1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961】
乗用車作りを学んだ日産の記念碑
世界をリードするクルマを作り出した裏には
よき師の存在があった。英国のオースチンである。
先進の乗用車作りを学ぶため日産は1952年に英国オースチンと提携。
主力モデルだったA40サマーセットサルーンのノックダウンを開始する。
1955年、A50ケンブリッジサルーンに生産車をスイッチしてからは
国産化が進み、1956年8月には完全な国産化を達成した。
日産がオースチンで培った技術はブルーバードやセドリックに発展し、
日本のモーターリーゼーションの牽引者の地位を明確にする。
日産が世界水準の乗用車設計を学んだ教師的な存在がオースチンだった。日産は小型車ダットサンによって戦前から乗用車の設計&生産に対し一定のノウハウを持っていた。しかし、不幸な戦争がその経験を空白のものとする。戦時下で必要とされたのはトラックなど実用性とタフさが最重要とされたモデルのみで、乗用車の生産は禁止されてしまったからだ。しかも敗戦により乗用車はさらに遠い存在となる。
戦後、段階的な生産認可を経て、1949年10月に乗用車の生産は全面解除となるが、乗用車の生産が許されても自動車メーカー各社は、魅力的な乗用車を作り出す術を持っていなかった。トラックのシャシー&エンジンを流用して、乗用車風のボディを被せる“にわか作り”をリリースするのが精一杯だったのだ。
このあたりの事情は日産自動車も例外ではなかった。しかも1950年末に、それまで禁じられていた日本人向けの外国車譲渡が緩和され、外車中古車が広く出回ることになったから、日本の自動車メーカーの技術レベルの立ち遅れが一層クローズアップされるようになってくる。世論の一部からは「国産乗用車不要論」まで出現するほどだったという。
自動車メーカーとともに、この流れを憂慮したのが当時の通産省だった。通産省は日本の乗用車産業を国情に合った小型車中心で育成していく方針を固めると同時に、欧米メーカーとの大きな技術ギャップを直視。積極的に海外メーカーとの技術提携を促進することで国産車の技術レベルを短期間に国際水準に引き上げるべきと考えた。通産省は1952年6月に「乗用車関係外資導入に関する基本方針」を決定する。これは外国自動車メーカーとの提携を通じて日本経済の発展に寄与する乗用車工業を育成することを目的としていた。
各メーカーは通産省のアシストもあり、外国メーカーとの提携を次々に決定する。いすゞがパートナーに選んだのは英国のルーツモーターズ、日野自動車はフランスのルノー公団を選び、それぞれヒルマン、ルノー4CVのノックダウン生産を開始した。
日産自動車は英国のオースチン社をパートナーとした。日産がオースチンを選んだ理由はオースチン社の伝統や世界市場での評価(当時の米国輸入車・ナンバー1)のほかに、エンジンが優れていたこと、すでに日本国内で千数百台ものオースチン車が愛用されていたことが決め手になったという。1952年12月4日、バーミングガムのオースチン本社で正式な提携調印が行われ、パートナーシップがスタートする。
技術を吸収するためにノックダウン生産するモデルには、オースチンの主力車種だったA40サマーセットサルーンが選ばれた。4気筒の1200ccエンジン(42ps)ユニットを搭載する上質な4ドアモデルで、滑らかな乗り味が魅力的だった。1953年4月からノックダウン生産が始まり市場に好評を持って受け入れられる。ちなみに車両価格は112万円。一般ユーザーには手が届かない高嶺の花の存在ではあった。
日産がノックダウン生産するオースチンは、本国のモデルチェンジに伴い1955年2月から、今回の主役であるA50ケンブリッジサルーンにスイッチする。A50はA40の全面リニューアル版で、スタイルはもちろん、エンジンまで一新されたブランニューモデルだった。ホイールベースが大幅に伸ばされたスタイリングは伸びやかで高級感もたっぷり。ボンネットフードに輝くオースチンのマスコットがスピード感を演出し、なんともカッコ良かった。室内も上質で、各部は丁寧なトリムが施されシートも分厚く乗り心地に優れていた。エンジンは1500ccに拡大され50ps/4400rpmとパワフルになり、スポーティと表現できるほどの走りを披露した。トップスピードは128km/hである。
A50は各部部品の国産化が積極的に図られ、1956年8月には完全国産化を実現する。提携の調印から僅か3年9ヶ月での完全国産化は、いすゞや日野に先駆けるものだった。オースチンとの提携によって、日産は先進乗用車技術を習得するとともに、部品の精度の維持、加工、検査、コスト切り下げのコツなどを学んだ。オースチンで得たノウハウがその後のブルーバードやセドリックを生み出し、“技術の日産”の基礎を確固たるものにしたのである。